ヴィテルボ
夕方、ようやくヴィテルボの街に到着した。ヴィテルボは、第二次世界大戦の末期に一部連合軍による爆撃を受けたが、中部イタリアにおいて最も良い状態で中世の町並みが残っている街として名高い。
また1257年から1281年の間、教皇が居を構えたため、ローマ、アヴィニョンに次ぐ「第三の教皇の街」としても有名である。
教皇を選出する会議である「コンクラーベ」(ラテン語で「鍵がかかった(cumclavi)」の意味)という言葉は、1268年に教皇クレメンス4世が逝去した後、なかなか教皇選出に至らない状況にヴィテルボ市民が怒り、枢機卿ら選挙団を宮殿に閉じ込めて鍵をかけた事件に由来する。その選挙団を閉じ込めた教皇宮殿は、今もこの街に残っている。
ヴィテルボという名前が初めて史実に登場するのは、773年にランゴバルド王がローマ攻略の前線基地として使用した時である。
その後、西を通っていた旧カッシア街道が今のヴィテルボ市内を通るようになり、街道沿いの街として発展した。12世紀からヴィテルボの盛期が始まり、1172年にはヴィテルボの北約9kmに位置し、ローマ時代から栄えていたフェレントを滅ぼして、そのシンボルである椰子の木を市章に加えた。
13世紀前半のヴィテルボは、拡張傾向にあるローマへの対抗上、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世による支配を受け入れたが、1243年には同皇帝軍を撃退。13世紀後半には教皇の御座所となり、黄金期を迎えた。
その後は、トゥーシア地方の中心都市として存在感を示し続けた。今も市庁舎として使われているプリオーリ宮「地図の間」の天井には、当時ヴィテルボが支配した33もの城の絵が誇らしげに描かれている。
市庁舎の向かいにあるサンタンジェロ教会には、ガリアーナという名の美女の墓がファサードに据え付けられている。
石棺にはローマ時代の見事な彫刻があり目を引く。伝説によると、ガリアーナは赤ワインを飲む際、喉が赤くなったのが分かるほど色白の美しい肌を持った女性だったため、生贄として白いイノシシに捧げられたが、間一髪でライオンに救われたという。
だがその後ガリアーナは、ローマ貴族に見初められたが拒絶したため、最後は殺されてしまったそうだ。
この美女伝説のせいか「ヴィテルボには美人が多い」という説がある。1831年にパリで出版された書籍『ローマについての統計学』では、ヴィテルボ人について「身長の高さ、形の美しさ、形質の規則性、表現の美しさにおいて、傑出している」と述べている。
中世においては、他にエトルリア由来の街がいくつも存在した中で、どうしてヴィテルボが突出して栄えたのだろうか。
色々調べてみたところ、強固な城壁と清潔な水の存在がカギだったようである。
11世紀から13世紀にかけて作られた全長約4kmの城壁は、今も健在で強固である。この城壁に守られた旧市街には、中心にあるフォンターナ・グランデ以外にもいくつかの噴水が残されているが、中世においては、「100の噴水の街」と呼ばれるほど噴水が多かったようだ。