その頃、長浜には、寧々と母様宛ての藤吉郎の書状を携えた武者が到着していた。
それを読んだ寧々は、「どうか藤吉郎様を助けてください」寧々と母様は泣き叫んだが、「大丈夫、あの子は日輪の子じゃ」と母様は寧々を慰めた。
一方、越前に残った織田家筆頭の重臣2人と池田殿が語り合っていた。藤吉郎と光秀と池田殿は、いかに本隊から浅井・朝倉軍を遠ざけながら、我が臣団を殺されず、温存させながら帰任するかについて意見を交わした。
光秀は緻密な才能をここでも発揮した。
「拙者の部隊は、地形を活かしながら後退と攻撃を繰り返し、本隊の戦場からの離脱情報の漏洩を可能な限り遅らせる策略です。
敵の目をあざむく為各隊の旗を利用したく所望した。旗印でうまく時を稼ぐつもりだ」
藤吉郎は、金ヶ崎城に残り、銃、長槍隊、弓隊、足軽隊、騎馬隊、柵防を急ごしらえさせて、不眠不休で敵隊を散らしながら果敢に殿を務めようと意見した。
そして、「そなたは、ここで織田軍への追尾の遮断を頼み申す」
「よし、では儂はこのルートで迎え撃ち織田軍を守り抜き、防戦いたす。では、互いに生きて岐阜で会おうぞ」
「皆の者、この道を一歩たりとも越前浅井・朝倉の兵を通過させるな! 鉄砲隊、槍隊、弓隊、足軽隊、準備は良いか!
それぞれの部隊は、守りながら攻め、攻めながら引き、殿という命がけの戦法を果たせ!」
互いに笑い、今生の別れの盃を酌み交わした。
かなりの死傷者が出たのは、言うまでもない。死に物狂いという言葉どおりの激戦を潜り抜け、藤吉郎は、ほぼ無傷で帰還した。それは見事な采配であった。