前田は、幼名を犬千代といい、信長とは竹馬の友である。信長が湯帷子を袖脱ぎして柿を食しながら人に寄りかかり、世間からは大うつけと陰口を叩かれていた頃からの付き合いだ。
だから信長の心情は手に取るようにわかる。事の経緯を察した前田は、佐久間に即座に伝えた。
「今頃木下は、長良川近辺で殿の命令により諜報活動(ちょうほうかつどう)と懐柔(かいじゅう)、材料調達に奔走しておるわ。それを進言すれば、殿も落ち着くであろう」
そこに信長の高い声が、奥の間から聞こえてくる。誰も応答せぬと、この城の主の声がますます力強く響いてきた。
「猿は、居ぬのか? 誰かある!」
信長の声に畏怖を感じた古参の勝家もたまらず溜息をこぼした。
「やれやれ、猿が良い働きをするたびに殿のご執着が増す一方だ、儂ら古参の家臣はたまらんわ」
さすがの柴田も辟易しながら悔しがり羨ましがっていた。
すると、前田は、
「そうならば、そなたも猿より良い働きをすればよいだけではないか。儂は、槍の又左で戦働きと知恵で殿に仕えている」と悠々と答えた。
これにはさすがの武闘派勝家も体裁悪く返答できずにいる。
その間にも信長の叫び声が続く。
これ以上、痺れを切らせては、周囲に〝とばっちり〟が来ると柴田らの会話を傍で聞いていた林が信長の元へ駆け寄る。
「これは、信長様。殿には、ご機嫌麗(きげんうるわ)しゅう、祝着至極(しゅうちゃくしごく)に存じます。本日は良い天気ですな。小窓からも実に美濃が近こう見えてまいりました。気分が上がりますな。我らで美濃を攻略してみせましょう」