清風改革は藩民全員の節約から始まり、四白(米塩蠟紙)の殖産興業を盛んにし、関門海峡という日本一の地の利を活かした赤間関 (あかまがせき)(下関)腰荷方(こしにかた)(東北の米を預かりそれを担保にして保管料と貸し付けを行う役所)を設け、ここが先々赤間関米相場を生んで藩に莫大な相場利益をもたらした。
この清風が江戸での松蔭の出処進退を激賞して「この松蔭の渡米行動が日本を救う」と言ったと伝えられている。
日本に歴史の大風が吹いた。
五八年に井伊直弼が大老に就任し、天皇の了解を得ずに開国を断行した。併行して同年に安政の大獄が断行され、松蔭は江戸に呼び戻される。松蔭はこの取り調べの折に老中の暗殺を企てたと告白して死罪になる。
折から二十歳の晋作は、長州藩の留学生として昌平黌で学んでいた。昌平黌とは幕府の学問所で当時日本一の学問が学べる場所として全国から秀才が集まっていた。
松蔭は処刑される日まで晋作に手紙を送り、藩や幕府を超えた日本国という視点で世界を見ることが大事だと説いた。そして、生き続けるより死ぬことに意味があるなら若くても死ねという激しい死生観を晋作に伝えた。
松蔭は赤児のように純粋無垢、一二〇パーセントの馬鹿正直な生き方で、安政の大獄という時代の嵐の犠牲となって二十九歳で刑死したが、その死に方の過激さで晋作や久坂玄瑞(くさかげんずい)などの弟子達の魂を揺り動かし弟子達の活躍で生き返ることとなった。
一方、江戸の昌平黌に留学中だった晋作は松蔭が処刑された翌年の一八六〇年一月二十三日に井上お雅を嫁取りした。お雅は防長一の美人と言われ、高杉家と同格の井上家の娘だった。この嫁取りは持病の鬱懐が暴発して晋作が何をしでかすか分からないことを恐れた父小忠太が画策したものだった。
松蔭が江戸で処刑された後、晋作は松下村塾の双璧と言われたもう一人の優れ者久坂玄瑞と共に松下村塾の仲間から頼りにされた。
晋作は相変わらずの異端児だったが、両親が農民出身で十一歳で円政寺の小僧として一年半育った利助――松下村塾では伊藤俊輔と名乗ったのちの伊藤博文を弟のように可愛がった。
師を失い解散となった松下村塾は自ずと塾生はバラバラになったが、俊輔は中関で腰荷方の職に従事した後も晋作にピッタリ寄り添い、生涯に亘って敬慕した。