マエストーソが男声─混声─男声─混声と歌い継がれる最後の混声部分の前(619小節から)で、ベートーヴェンはこのMußをベース─アルトとテナー─ソプラノの順で一拍ずつずらして出し、聴く耳には“Muß, Muß, Muß”と三度くりかえし聞こえ、しかもその一つ一つにsfがつけられている。
この部分も指揮者によっては、流れるようなレガートで演奏されることがある。合唱の響きの美しさからいえば、この方がいいかもしれないが、ベートーヴェンの音楽は、美しさを最優先させるべきものではない。
第九交響曲は日本全国で年に何十回という頻度で演奏されるので、これほどには頻繁に演奏されない欧米のオーケストラや合唱団より音の整え方は上出来であることが多い。
ウィーンのコンツェルト・ハウスでドホナーニの指揮するウィーン・シンフォニカーの演奏を聴いてその粗雑さにあきれ返ったことがある。
日本のオーケストラと合唱団ならこんな当たり外れはまずない。しかし、多くの場合どこか物足りなさを感じる、その一つの要因が、合唱の力不足、それも声量の不足やめりはりの弱さではなく、ベートーヴェンがシラーの詩に託した思いの大きさ、深さを十分に呑み込んだ発音や発声ができていないもどかしさから来るように思う。
この点については、かつてライプツィッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のコンサートマスターであったゲルハルト・ボッセの夫人の菅野美智子さんが書かれた「雨の歌──ゲルハルト・ボッセ、その肖像のための十八のデッサン」(アルテスパブリッシング、二〇一九年)の中に、
ボッセ氏がゲヴァントハウス引退後、東京芸大の客員教授に招かれ、日本で第九交響曲を指揮したときに、合唱団に対してドイツ語の発音についてやかましく注文を付けていたことが書かれているのを読んだことがある。
音楽大学では演奏技術を高めたり、指揮、作曲などの知識を構築するために多くの時間を要するが、同時に教養課程をさらに充実し、たとえば、西洋音楽の主流である独、仏、伊の三国について(少なくとも一国について)その国の文学、哲学、法律、歴史など興味が持てる何か一科目を、突っ込んで勉強するよう指導することで、演奏に深みが加わるように思えるのだが。
【イチオシ記事】病院から返ってきた彼は別人だった。物足りないと感じていた彼との行為は長く激しくなり、私は初めて絶頂で意識を失って…
【注目記事】「どの部屋にする?」選んだのは、大きなベッドに小さな冷蔵庫、広すぎるバスルーム。浴槽の前で促されて服を脱ぐと…