「ここで、いやらしいことしたの」
これには、答えない。
「人がいる。M子さんとN雄ちゃんだね」
その人が立ち上がった。
「M子だ」
すぐに、わかった。
ここで、抱いた時と、同じだ。死んだ人は年をとらない。
「あの時から後は、声だけだったけれどな。今は、姿もはっきりしている」
「それは、あなたが思い出したからよ。思い出されていない人の夢、≪押しかけの夢≫は、声だけなど不完全なもの。だって、思い出していないのだから、完全なものにはならない。亡霊は、ただ一方的なものだから、もっと不完全ね」
よくわからなかった。妻は、そんなことを、どこで知ったのだろう。
立ち上がったM子と私達は、ゆっくり近づいた。ドキドキした。
どんな挨拶をしたらよいのか、わからなかった。≪元気ですか≫・≪こんにちは≫・≪いらっしゃい≫・≪いい天気ですね≫・≪おはようございます≫……。皆、ふさわしくない。他に、適切な言葉はないか。
無言のまま、向かい合った。
何か言わねばならない。焦った。
「お久しぶりです」
ようやく発した私の言葉は、ぎこちなかった。自分のものではなかった。
「この人、緊張しているわ。柄になく」
妻は、普段の快活なしゃべり方だった。
「よく、来ていただきました」
M子は、声だけの時よりも、言葉少なかった。俺とは違い、随分落ち着いている。
「これが、N雄です」
彼は、ベンチにちょこんと腰かけていた。
「さあ、おじちゃんとおばちゃんに、ご挨拶は……」
M子に言われて、N雄は座ったまま、
「こんにちは」
と、元気な大きな声で挨拶した。
俺は、N雄の顔と、まじまじと見た。3~5歳くらいか。細めの目、小さな鼻と口。M子は、目は大きいが、鼻と口は小さめだ。美しく、かわいい顔。そして、この俺は、大きな顔、細い目、大きな鼻と口。この子は、誰に似たのだろう。
次回更新は3月20日(金)、21時の予定です。