【前回記事を読む】監禁・情報遮断という異常な状況。ブタ箱で死のうが誰も悲しまない――俺が正気を失う前に現れたのは

透明人間

その日の終わり、留置場内の空気が一変しているのに気づいた。何も入ってない冷蔵庫を連想させる暗い空気があった。いつの間にか独房に誰かが入所していたようだ。先ほどのガサ入れは、入所のカモフラージュも兼ねていたのかもしれない。

留置場内の多数の人間の意識が、独房に向いている。罪人が持つ動物的なカンが知らせるのだ「危険だ」と。遠くにライオンを見つけて、逃げ場をなくしたサルの群れのように、怯えて動揺し、無言でざわめいていた。

独房は、俺がいる房から二つほど先にあるようだが、確かにそこから得体のしれない空気が漂っていた。確実な情報は何もわからなかった。隠されていた。ただ、すぐ近くに暗くて冷たい存在があるのを感じた。それを発している本人は、こちらにつゆほどの興味もないようだった。

「……コロシかな」

岩井さんがなにげなく言った。

慣れてきていたから、感覚が麻痺していた。ここは犯罪者の来るところだ。殺人犯だってやってくる。身近に殺人者を感じるのは初めてだった。はずだった。

このピリピリした冷たい感覚は、身に覚えがある。あの女と似ている。世の中には罪悪感なしに人を殺す人間がいる。傷つけたり、犯したり、盗んだりする人間がいる。罪悪感があるなら、まだ人間と言える。この広い世の中には自分のためなら、他者を地獄に落としても何も感じない人間がいる。

俺は、妻のミサトを思い出した。

――現在の時間がわからない。

人生初の経験だった。大学を卒業してから、22歳から13年間、社会人として生活を送り、常に時間を意識して生活をしてきた。

時間が必要ない、時間に必要とされない人間になった。経済活動に関与しない人間は、時間とも社会とも無縁の存在だ。透明人間だ。

それは「永遠」という名の地獄だった。

この状態がずっと続くのではないかという錯覚だ。

「快感」も「苦悩」も、「永遠」という要素が加わって、人間を絶望させる毒になる。

何でこんな所にいるんだ。気が狂いそうだ。

朝7時から、消灯の21時まで、ずっと蛍光灯が灯っていて日光を浴びることもない。取り調べなどのイベントがなければ、基本的にやることはない。畳の上に座って時間を潰すだけだ。

「何もすることがない」というのが、これだけ苦痛とは思ってもみなかった。ただひたすら自分の罪と向き合うしかないのだ。

留置場内に設置してある本棚から、房内に本を3冊まで持ち込めるのだが、小説、ビジネス実用書、幅広くあったが、とても教養や今後の人生のヒントになりそうな本はなかった。

死ぬほど興味のない本でも何もしないよりはマシだ。俺は手当たり次第に読んだ。思えば、妻ミサトと生活していた4年間は、まともに本など読めなかった。ミサトと同棲した頃から次第に束縛され、自分の時間はなくなっていった。