「私達が死んだから、あなたは今の奥さんと結婚したのでしょう。子どもも生まれたのでしょう」
「……」
「あなたがいくら忘れても、私にとっては、ここは死んでも忘れられない場所。そんな場所だから、私の魂はここにあるの。あの世へ行けず、さ迷っているの。再会出来て、嬉しいわ」
だが、俺にそんな記憶はない。
「人違いじゃないか」
と、小さくつぶやいた。
「まあ。忘れてしまったの。責任逃れで、そう言っているのではないでしょうね。本当に薄情な人ね。でも、責任取れとは言わないわ。お願いだから、思い出して。あなたが思い出してくれれば、つかの間の間でも、この世によみがえることが出来るから」
女の切ない声に応え、懸命に考えた。
「すまない。何もわからない。どうやって家へ帰ればよいかもわからないんだ」
「本当に認知症なのね。私は死んだ時のままだけど、あなたは随分年取ったのね」
自分でも、そう思う。
「認知症は、都合の悪いことは忘れ、都合の良いことは忘れないと言うじゃない。あなたも、そうなのかしら」
「そんなんじゃない」
「私達が死んだから、私よりもっときれいで頭の良い奥さんと結婚出来た。幸せがいっぱいな家庭を持つことが出来た。そうでしょう。あなたにとって、とても都合よく進んだわね」
痛烈な言葉であった。
「ほんの一瞬でもいいから、思い出して。ほんのかけらでもいいから、思い出して」
それとともに、俺の心の中に、何かゆっくりと浮かんでくるものがあった。
「N雄……」
彼女のおなかの中にいた子どもの名前を思い出した。俺がつけた名前だ。
彼女の妊娠がわかって、会った時に名前をつける話になって、
「男の子だったら、N雄だな」
と、答えた後、その名を何度も口ずさみながら、まだ平たかったおなかを撫でた。