二 忍び寄る大戦の足音
翌昭和六年、俊介は海軍兵学校へ入学。広島へ鹿島立ちしていった。
又二郎にとって、政治の世界はわけのわからぬ事ばかりであった。そして新聞紙上を賑わす様々な事件も下らぬ事ばかりと、殆ど見向きした事もなかった。
その上列強国が目まぐるしく激しい動きを見せているとの数段抜きの報道にも、無関心であったのだ。従って視野が狭くなっていたのも頷ける事であった。
ところが俊介が江田島へ旅立った頃から、しきりと新聞に目を通しては切り抜きを作り、ラジオにもよく耳を傾けるようになって、生活態度に変化が見られたのだった。
当時、満州事変(昭和六年)に続いた満洲国建国(昭和七年)は国際社会から認知されず、日本の孤立化は深まるばかりであった。
それにも拘らず胎動する陸軍軍部の力は強大になり、政府が不拡大方針と言いながら現地陸軍(関東軍)の活動は拡大の一途となり、大量の兵員を要するばかりの戦局へ着実に進んでしまっていた。
「政府と陸軍、現地軍と陸軍省の命令系統で、調整出来ねえ食い違いがあるという事は、按配悪い事だ」等と論評するようにもなっていた。
そして予想していた通りか、予想された筋書き通りか、くすぶり続けていた中国大陸の不穏な空気に火が付き、昭和十二年七月、本格的に戦火として燃え上ってしまったのだ。いわゆる盧溝橋事件を切っ掛けに、日中戦争が勃発したのである。
この時俊介は昭和十年海軍兵学校を卒業するや南支南洋方面への遠洋航海の後、霞ヶ浦宇佐海軍航空隊学生を命ぜられ、任務全うに励んでいた。そして少尉に昇進後、横須賀海軍航空隊教官を拝命し、職業軍人としての歩みを着実に始めていたのであった。
又二郎は肌で感じていたのである。