【前回の記事を読む】「あっ、先日娘が亡くなったみたいで」と出頭してきた男は、大型トラック内で変死していた幼女の父親だった。
赤い鞄
加賀は、記載されていた住所を訪ねた。みよこたちが暮らしていたのは四畳半一間のアパートだった。共同トイレ、共同炊事場のそのアパートは木造の二階建てだった。
住んでいる者は世間から弾き飛ばされたと思われる人間たちで、アパートの有様はそれを物語っていた。土間の廊下には裸電球が備え付けられていたが、長過ぎるコードは無造作に垂れ下がり、大家の怠慢さを伝えているようだった。
みよこの暮らしていた部屋の中で、人間の生活を感じさせるものはバンビの描かれた洋服ダンス一つだった。他に家具らしきものは何もなく、万年床は湿気とシミが我がもの顔ではびこりこの部屋に漂う悪臭の手助けをしていた。
畳敷きの部屋だったが、畳というよりはゴザを板の上に敷いていると言った方が的確な薄っぺらで粗野な部屋であった。足元に転がっているものは、脱いだ服の他に食料の残骸、タバコの吸殻など、数え出せばきりがないほど腐敗したものに覆われていた。
加賀がアパートの廊下をうろついていると、一人の女性が怪訝(けげん)そうに声をかけてきた。加賀は警察手帳を見せ、みよこたちの生活状況が知りたいと女性に話した。その女性は二階に住んでいたがみよこのことはよく知っていると言った。「とても可愛い子だったよ。挨拶もちゃんとして、あんな父親じゃ可哀想だよ」
『みよこちゃんは、父親と二人で暮らしていたのですか?』
「そうよ、酒飲みの呑んだくれだよ。ろくに仕事もしないでさ。でも、あの子は頭のいい子でね、私や旦那が字なんか教えるとすぐに覚えたよ」
女性は何かを思い出すようにポツリポツリと話し始めた。
みよこの父親は酒に溺れろくに仕事もしない人間で、それが原因でみよこの母親はみよこたちを捨てて家を出た。
それ以降みよこの父親は酒に酔うと娘に手を上げ、妻に逃げられた鬱積(うつせき)をみよこにぶつけるのだった。酒が入っていなければおとなしく優しい父をみよこは嫌うことができなかった。
自分の酒代はどこかで工面してくるものの、みよこの食費は知らぬ顔で、みよこがどんなにお腹を空かしていても食事を用意することはなく、小銭さえ与えることはしなかった。
ある雨の日、みよこは近所のバス停に立っていた。別に誰かを迎えにきたわけでもなければ誰かを見送りにきたわけでもなかった。何もすることがなく、ただ呆然(ぼうぜん)と降りしきる雨の中に立っていた。
するとバスが停まり、中から何人かの大人たちが出てきた。細長いバスの中から出てくる大人たちは、皆つまらなそうな顔をしていた。今日一日どこかで働き、疲れ切った面持ちでバスを降りた。いちばん最後に降りてきた男の風貌が、何気に父親と似ていると思った。
いつも暴力を振るわれているのに、なぜか嫌いになれない父に似ていた。思わずみよこはニコリと笑って見せた。それは雨が音符に変わるほど軽やかで可愛らしい笑顔だった。