遥香が今どこでなにをしているのか、まったく知らない。それどころか、僕が転校した後、遥香が子供をどうしたのか、それについても一切知らないのだ。僕は遥香のお腹の中に宿った一つの命の、唯一の父親なのに、そんな普通でない理不尽に、僕はもう争うつもりはない。
父と母は知っているのだろうか。知っているなら、教えてくれてもいいのに、それさえもしない。はじめからなにもなかったみたいに、母からは安否を確認するだけのメッセージや電話がたまに届くが、いつも適当に返事をしている。あれ以来、一度も故郷にも戻っていない。
ボーッと天井を見つめる。古いアパートだが、室内はそれなりに綺麗にリフォームがされているし、家賃も安い。きっとこの先も普通に大学を卒業して、普通に就職して、普通に定年退職して、普通に生涯を終える。僕の人生はそんなものだろう。
別に特に希望もないし、かといって絶望するほどのことも起きない。ただただ普通に生きて、普通に死んでいくだけだ。
あの頃は、将来の生活について、キラキラと目を輝かせて語っていたのに、そうする相手もいない。こんな生活を、人はつまらないというだろうか。けれども僕はそれでいい。あの頃のように、なにか大切なものを奪われるくらいなら、なにも生み出さない方がずっといい。
そんなふうに思って毎日を過ごしていたら、いつの間にかあまり人とコミュニケーションを取らない人間になってしまった。だから、本当に前園さんとは深い関係性になりたくないのだ。
約束のカフェに行く日、仕方なく大学の帰り道に前園さんと二人で並んで歩く。
「今日もあの教授、自分よがりの授業やってたよねー」
前園さんは暑い日差しから身を守るように、手でパタパタと仰いでいる。
「今日行くところはね、すっごく内装が可愛いんだよ」
すごく嬉しそうだが、あいにく僕はそうではない。できるだけ早く終わってほしい。
着いたカフェは僕にはあまりにもレベルが高そうだった。明らかに店内にいるのは若い女性だらけで、甘い飲み物片手にパシャパシャと写真を撮っている。きっとSNSに載せるんだろうな。こんな程度で満たされる女性の承認欲求を思うと、ホストに貢ぐ女が出てくる理由もわかる。
笑顔でメニューを訊ねる店員に、前園さんは慣れた素ぶりで解読不能な横文字を並べている。本当にわかって注文しているのだろうか。
次回更新は2月3日(火)、11時の予定です。