【前回の記事を読む】トラックの仮眠スペースで見つかった小さな変死体。「かくれんぼしている間に眠り込んだような」状態に、事件性は…

赤い鞄

そうだよな、俺はあの子に比べたらタチの悪い存在さ。生きることにそれほどの執着があるわけではないが、この年まで生き延びている。体の中で飼いならした闇は今にもこの体を突き破ってこの世に誕生しそうだ。

加賀は心の中でそう誰にともなく話しながら、この瞼(まぶた)が開いたらどんな眼差しがそこにあるだろう、瞳の白い部分はきっと濁りなどなくこの肌と同じく真っ白だろう、と開くことのない瞼を撫でてみた。

蜘蛛(くも)の糸ほど細くて真っ直ぐな髪は額に優しく寄り添い、加賀が頰にかかった髪を優しく耳に掛けると、子供ながらに綺麗な形の三角に尖った顎が現れた。

生きて大人になればきっと美人になる、そして素晴らしい人生が待っていたのになぁと加賀の目頭は一気に熱くなった。横井のように手を合わせ「さっきは、ごめんな」と心の中で呟いた。

ブラインド越しに見える空は、またあの日と同じだなと感じながら、加賀は一人デスクでコーヒーをすすっていた。インスタントコーヒーは簡単に作れて手間は掛からないが、その分簡単にコーヒーの匂いを消し去って行く。

コーヒー通ではないが、こんな、世界が灰色に慣れ親しんだような日には、頭にツンとくるコーヒーが飲みたい。埃(ほこり)が積もって、最初の色をなくしてしまったブラインドに近づき指で弾いてみた。

お世辞にも片付けられているとは言えないデスクの上を、加賀のあやふやな視線は止めどなく漂っていた。結局あの件は「少女の凍死」で片がつき、今では誰もあの少女のことを口にするものはいなかった。あの日からまだ二週間しか経っていない。

なんだか腑に落ちない加賀は、暇があるとあの赤い鞄を開けた時の臭いを思い出していた。「ごじゅうえん」と描かれた小さな紙切れは、ひらひらと加賀の頭の中を自由自在に飛び回っていた。

事故死として片付けられた事件に異を唱える訳ではなかった。ただ、鞄を開けた時のあの臭いが加賀の胸をしめつけ離さなかったのだ。

加賀は家庭環境に恵まれず育った。母親の君江(きみえ)はスナックを経営し、加賀親子はそこで得られる収入で生計を立てていた。父親は加賀が物心ついた時にはすでにその姿はなく、君江は自由気ままに男を自分の人生の中に住まわせた。

その男たちに暴力を振るわれた記憶もなく、母に邪魔者扱いをされた記憶もなかった。自分と同じような人生を歩んでいるやつは他にもきっと大勢いる。そのわずかな連帯感が加賀を強くさせ、大人の顔色を読み、大人が何を望んでいるかを察することのできる子供へと育てた。

邪魔者扱いをされる前に加賀はどこかへ姿を消し、暴力を振るわれる前に男にへつらい、自分自身が生きやすい道をいつも選択してきた。

だが、それはいつも加賀の心の中に、タールの様な塊を(かたまり)生み出すのだった。心に落とされた小さなタールは、やがて独特な臭いを放ちながら融合していった。

何もされないことへの代償に、加賀は心に決して消え去ることのない闇を生み出していた。思春期になって、その闇が誰かに知られるのではないかと案じた加賀は、闇とは真逆の職業である警察官になろうと強く心に誓った。

だが、警察官になったと聞いた君江は、私への当てつけか、と最初はヒステリーを起こし息子をなじり続け、ついにはアルコール依存症になってしまった。