【前回記事を読む】小野小町の父? 小野篁の性格は極めて独特だった。身長186cmの大男で、遣唐副使に選ばれるも乗船拒否…あだ名は「野狂」。
12 遍昭(へんじょう)(八一六~八九〇)
末の露もとのしづくや世の中のおくれさきだつためしなるらむ
(葉末に宿る露や根元にしたたり落ちる雫は、この世の中では早いか遅いかの違いはあって
も、すべてのものがいつかは滅びてゆくということの実例であろうか)
「末の露」は草木の葉末に置く露、「もと」は草木の根元の意味である。
梢の露も根元の雫も、早いか遅いかの違いはあれ、結局は落ちてゆく。
それと同じように、世の中は遅れて亡くなる人もいれば先んじて死んでいく人もいる。我々の命はさだめのない儚いものよ、と嘆じているのだ。
永劫の中では人の命は、露や雫の一瞬のきらめきのようなものかもしれない。
この歌は遍昭を引き立ててくれた仁明天皇が崩御したときに詠われた。
遍昭の俗名は良岑宗貞(よしみねむねさだ)。
桓武天皇の孫で、素性(そせい)法師[20番]の父である。抜群の美男で容姿端正であったといわれている。
仁明天皇の恩寵を受け蔵人頭(くろうどのとう)になる。この役職はいわゆる天皇秘書官のトップである。
仁明天皇が崩御したその日に出家し、比叡山に入った。愛する妻や子どもには何も告げずに、突然姿を消すような仕業だったという。
このとき三十五歳の遍昭は、剃髪にあたって悲痛な思いを次のように詠った。
たらちめはかかれとてしもむばたまのわが黒髪を撫でずやありけむ
(母はまさかこのようなことになれと思って、幼い私の黒髪を撫でたのではなかったろう)
その後、五十代に入ると名僧として再び宮廷に迎えられる。
光孝天皇が即位すると、光孝天皇と遍昭は竹馬の友だったので、いよいよ重く用いられ、七十歳のときに仏教界で最高位の指導者である僧正となる。