夏海は初めて他人に今の自分をさらけ出した。夏海は電話を終えた後、なんであんなことを話してしまったのかと後悔した。徹の実家は夏海の家から車で十分ぐらいだ。
徹は『今から行きます』と言って電話を切った。こんな姿を見られたくはない。だが、自分の中にいる「老婆」を晒さなければ、「老婆」はもっと我がもの顔で自分の中を行き来するだろう。すでに自分の力だけではどうすることもできない。
「誰か助けて」声にならない夏海の思いが身体の中に湧き上がり救いを求めた。
救世主が徹なのかわからないまま、玄関のチャイムが鳴り夏海はドアを開けてしまった。
「どうしたんですか」
想像していた通りの言葉が返ってきた。男のほんの少しの汗の匂いと、蒸し暑い空気が混ざり合い夏海の横を過ぎて行った。
「夏海さん起きて」
徹の声が遠くで響いた。ここは何処(どこ)なのだろう、私は誰なのだろう。最近の目覚めはいつもこんな感じだった。しばらく自分のことがわからない。窓から下を見下ろすと、公園の紅葉(もみじ)が真っ赤に燃えていた。
「老婆」を晒したあの日から、夏海と徹は一緒に暮らしている。夏海は次第に会社に行くことができなくなり仕事を辞めた。
隆司はとうとう家を出てしまい、年下の女の所へ転がりこんでいた。私のあの風俗での苦労は何だったのだろう。家族を守るために、身を投げ打ってしたあの忌まわしい思いは何処へ葬ればいいのだろう。
娘の沙耶も家を出て、繁華街でキャバ嬢として働いている。人間ってなんて身勝手なの、自分が良ければそれまでの誰かの苦労は忘れて生きられる生き物なのか。
夏海がそう感じ始めてから、夏海の中の老婆はさらに食欲を増し夏海を喰らい、醜く太り髪を振り乱し、夏海の中に残されたわずかな「人間」の部分に抗(あらが)うようになった。徹の声がする、我に返った夏海は徹の促しで食事を摂った。
徹は夏海に対してとても献身的であった。学生という身分を利用し、ほとんどの時間を夏海と共にした。
紅葉が真っ赤に色づいたのを見て、「私たちは同じ血の匂いがするわね」とある日夏海がポツリと言った。
徹にはなんのことを言っているのかわからなかった。
紅葉の葉を見つめ返した時、徹の中の過去が蘇り、父の暴力から逃げ惑う母の姿が浮かんできた。母はどうしているだろうか、父からうまく逃げているだろうか、ほんの少しの後ろめたさが徹の心を曇らせた。
次回更新は1月17日(土)、21時の予定です。
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