普通の仕事に就けない者が辿り着く業界が風俗だ。河本も例外ではなかった。いつだったか、客が部屋を出た五分後にインターホンがけたたましく鳴り響き、湿度の高い部屋を一瞬で乾燥させ、夏海の乾いた心に火を点けた。指先まで熱をもった手で受話器を取ると、

「まだ用意できませんか? 次のお客様はもう三十分も待っています」と河本が声を荒げて言い出した。

この時ばかりは夏海も日頃の鬱憤(うっぷん)が爆発し、「もう嫌です。今日は仕事しません」と言ってインターホンを壁に投げつけた。

すると社長が慌てた様子で夏海の部屋に入ってきて「葵さん、どうしたの?」と優しく声をかけ、泣きじゃくる夏海の背中を優しくさすってくれた。

「もう河本さんは嫌。あの人がフロントなら私はこの店を辞めます」

小さい子供が駄々をこねるように言い放った。もちろん夏海は店を辞める気なんてさらさらなかったが、この客の付け方はおかしいのだ、と社長に知って欲しくて、小さなストライキを起こしただけだった。

その夏海のストライキは功を奏し、その後客とのインターバルはきっちり十分取って貰えるようになった。

「今日もご予約でいっぱいです。支度ができたらコールお願いします」予約表はコンパニオンには見せてもらえない。その予約表を指で強く引き客の名前を確認する。

あなたの指図は受けないから、そう言いたいが言えない無言の行動だった。こんなバカバカしいやり取りを繰り返し、夏海は自分が店側にとってどんな存在であるかを知らしめていった。

次回更新は1月13日(火)、21時の予定です。

 

👉『私の中のアヒルと毒』連載記事一覧はこちら

【イチオシ記事】男たちの群れの中、無抵抗に、人形のように揺られる少女の脚を見ていた。あの日救えなかった彼女と妹を同一視するように…

【注目記事】やはり妻はシた側だった?…死に際に発した言葉は素性の知れない「テンチョウ」