【前回の記事を読む】夫のために、男性客の処理をするように…最初は接客が嫌で泣いてばかりいたのに、あることを変えると指名が増え始め…

言葉のサラダ

夏海が在籍する風俗店は、外装を煉瓦色のタイルで貼りつめたマンションの十二階にあった。通称「風俗ビル」と呼ばれていたが、そこには一般人も数人住んでいた。

エレベーターに通じる通路は小便の臭いで鼻での呼吸を止めたくなる。深夜酔っ払いの客が辺り構わず小便をするため、壁には気休めのように小さな鳥居が描かれていた。

この通路は昼間でも仄暗く、汚れた壁に描かれた赤い鳥居は不気味で狐(きつね)のお化けが出てきそうだった。夏海は少し気味が悪いと感じながらも、馬鹿馬鹿しい、酔っ払いに子供騙しの鳥居など通用するものか、と鼻で笑い早足でエレベーターホールに向かった。

この通路を歩くたび夏海は、予期せぬ何かが起きるのを待っていた。しかし、何もことは起きてくれず、踵を返して逃げ出したくなる気持ちは前を向いたままだった。背後から差し込む光が夏海の肩に頰を寄せ、何をしているのと尋ねてきた。雑踏の中に人の体温が浮かんでいる方へ戻りたかった。戻れなかった。

数時間で稼ぐ金額の多さは、脊髄(せきずい)に打つブロック注射のように痛みを和らげてくれた。

「おはようございます」

エレベーターの扉が開き、目の前に立ち並ぶボーイたちに挨拶をする。狭い通路の両脇には二十代から三十代の男性が五~六人、祭りでもないのに半被(はっぴ)を纏(まと)い仏頂面で立っている。

「おはようございます」

全員が一斉に声を張り上げ挨拶をする。まるで軍隊の敬礼のようだ。まったく朝なのだからもっと爽やかに言えないものか、と夏海はいつもこの形式だけの挨拶に苛立ちを覚えた。

その後、わずか二畳ほどのスペースでコンパニオンの私物に紛れ、小さくなっているフロントマンの男性と挨拶を交わす。

「葵(あおい)さん、おはようございます。いつもの部屋でお願いします」

そう言ってフロントを任されている河本(かわもと)は、無愛想な顔を夏海に向け荷物を渡した。

「葵」とは夏海の源氏名(げんじな)である。この店に入店を決めた時に夏海自身が自分で決めた名だった。『源氏物語』の葵の上の生涯に興味を抱いていた夏海は、葵という名前が大変気に入っていた。河本から手渡された鞄にはドライヤー、ローション、ボディークリーム、爪切りなど店で使うものが入っている。

夏海はこのフロントの河本が嫌いだった。なぜなら仕事を目一杯付けるからだ。朝十時から夕方の五時までが夏海の勤務時間だった。店側としては、コンパニオンが待機する時間は目一杯稼働して欲しい。しかし、次の客とのインターバルをせめて十分は欲しい、というのが夏海の百歩譲った意見だ。

客が部屋を出る、するとコンパニオンは客の使ったグラスや灰皿を洗い、ベッドのタオルをセットし、自分自身も化粧を直し、気持ちをリセットしなければならない。

それをうまく調整してくれるフロントマンもいるが、河本は違った。退勤時間が過ぎようがおかまいなしに客を付ける。

この河本という男は、二時間おきにかかってくる上層部からの売り上げ報告電話に怯(おび)えているだけだった。数字が悪いとなじられる、それが嫌でコンパニオンを駒のように動かす。

黒ぶちの眼鏡の奥には、瞳などとは言いがたい眼球が居座っていた。この業界によくいるタイプの男だ、とかねがね夏海は感じていた。