神の存在証明とゲーデル

進化論者たちが「神の存在否定」に尽力するのはある意味で自然の成り行きです。神が本当に存在するのであれば、神はそれらの人間に責任を問い、いつか必ずや報復されるということは当然です。「彼は自分の糞のようにとこしえに滅びる」(ヨブ20:7)とは、聖書記者もよほど譬えに苦慮されたものと思われます。

では神が存在するのであれば、「神の存在証明」という問題はどうでしょうか。実はこの問題に己が全存在を賭した哲人が、二〇世紀に出現したのです。チェコの数学者であったクルト・ゲーデル(一九〇六~一九七八)がその人です。

彼は数学的手法による「証明の問題」として、人間理性のまな板の上に数学的「対象」として神をのぼらせたのです。それはまさに一人の人間の中に全人類の英知を結集させ、代弁させてみようとする意志の配剤による、一大公開実験だったのかもしれません。理性の収斂による「神の存在証明」とは、即ち「理性の限界」というものが那辺にあるのかという問題の裏返しにもなるからです。

数学とは例えば「同じものに等しいものは互いに等しい」とか、「等しいものに同じものを加えたものは互いに等しい」とか、「全体は部分よりも大きい」といった疑問の余地なき素朴な納得、つまり人間の「信念」を公理とする演繹的に推論可能な理論体系のことです。

なお、命題とはある種の「判断」を言葉や記号や数字で表したものです。例えばAならばBを「A→B」、戦争は悪を「戦争→悪」と表現します。しかしその命題の「真偽」の判定は一定の推論規則という所与の条件をクリアーし、なおかつ例外や曖昧さを一切排除し、完全枚挙の上に論理的推論によって「証明」されねばなりません。それが数学のルールだからです。

証明された命題は次に「定理」と呼ばれ、新たな命題を証明する時の論拠としてその体系内に次々と取り込み拡張してきました。数学という方法論は、その無矛盾性と証明性との演算によってその数学的システムをより磐石なものとし、数学以外の「他者」の真偽判定のための唯一の指針として、知性を牽引し人類を案内してきたのです。そしてとうとうその矛先が「神」にまで向いてしまったというわけです。

言葉というものを文字や記号に還元し文法や構文という推論規則の下に表現された思想が哲学だとすれば、今や意味を問うことから逃れられなくなった理性の先鋒として、証明を唯一の生業とする数学が「神の存在証明」という最終命題を目指したのはむしろ歴史の必然なのかもしれません。

別言すれば数学とは、結局、人間の言葉の代わりに数字と記号を使ってある命題の無矛盾性を証明するための「思想」であり、預言的役割を担う言葉を使わない「哲学」なのです。