この人を見よ
一、馬槽(まぶね)の中にうぶごえあげ大工(たくみ)の家に人となりて
貧しきうれい生くるなやみつぶさになめしこの人を見よ
二、食するひまもうちわすれてしいたげられし人をたずね
友なきものの友となりて心くだきしこの人を見よ
三、すべてのものを与えしすえ死のほか何もむくいられで
十字架の上にあげられつつ敵を赦ししこの人を見よ
四、この人を見よこの人にぞこよなき愛はあらわれたる
この人を見よこの人こそ人となりたる活ける神なれ
讃美歌一二一番
世界観という問題
人間が人間らしく生きるにはどのような人生観や歴史観を持つべきなのでしょうか。そもそも「人間らしく」と言ったところで、その時の「人間らしさ」とは一体何を意味し、何を根拠としてのことなのでしょうか。果たしてそのようなものは本当にあるのでしょうか。
もしも「人間らしさ」というものを自明として首肯するのであれば、その言質を人間は誰に求めればいいのでしょう。そんな時に漠然と浮上してくるのが世界観という、ア・プリオリの問題です。
世界観という枠組みは、人間自身が存在するこの世の成り立ちを明らかにし、過去から現在までを整合的に説明し、未来を展望する時の問いに対する最もプリミティブな前提であり、仮説のことだからです。しかし、この仮説の真偽を証明するのは人間の手に負える仕事ではありません。
それが可能なら、仮説は仮説ではなくなります。一人の人間として生きていく他はないそれぞれのステージでもある世界観、その選択肢の問題とはその人自身の信仰告白なのかもしれません。それは人生の岐路に立てられた検証不能な最初の分水嶺であり、「道しるべ」のようなものだからです。
意識するしないに拘わらず、それぞれが勝手に思い描いたその構図の中を誰に操られることなく生きてしまうのが人間というものであれば、あだや疎かにはできないはずです。最初のボタンの掛け違いというのは自覚困難な上、途中でそう簡単に修正のきく作業ではないからです。
その「道しるべ」の選択が正しかったか否かという判定は、目的地に着くまでは誰にも分かりません。人間が持つべき正しい世界観や人生観というものは実際ありそうなのですが、否、あってほしいのですが、この命題は人間がその全知をもってしても正否を判定することはできません。
聖書に曰く「それは、こう書いてあるからです。『わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。』知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。
事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。
ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシャ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」(Ⅰコリント1:19~25)。