陸上競技部に属していた私ではあったけれど、その手の汗臭い青春というものはあまり感じなかった。

陸上の、特に中・長距離は、基本的にみんなで団結して一つのものを目指すというような集団スポーツではないので、常に己との闘いである。顧問の先生や先輩はいても、基本的には自分で考えて、自分で努力するしかない。

そういう意味では、スクールカースト〝中の下〟くらい、二軍女子ギリギリ、下手(へた)をすれば三軍の私の性格にも合っていたと思うし、地味だが、いや地味だからこそ続けられた。

一万メートル前後の距離を走るのが自分にはいちばん合うと思ったけれど、それでもやってみるとそんなに甘くはなく、四五分の壁を破るのでさえも容易なことではなかった。

そこへきて二年の終わりの、この手首の骨折をきっかけに走りから離れてしまったことは少し悔しかったけれど、私はそれなりに精一杯やってきたし、それはそれで残念だが仕方のないことと割り切るしかなかった。

それよりも、高校生活においての心残りというものが、もしあるとしたら、それは、正直なことを言うと、恋愛というものにまったく縁がなかったことだ。

でも、そのなかで一つだけ、たった一つだけ、おそらくは私の将来を方向づけた、あるイベント事があった。

いま考えると、これは私にとって、そして私の友だちにとっても、はじめて大人の男性を意識した重大な〝事件〟といってもいいくらいの一大事だった。そしてそれは、ある意味、己の運命を変えたといってもいい歴史の一ページだった。

高校時代の私には仲の良い友だちが三人いて、うち二人は地元中学から続いている同級生だった。電車で三駅先の小川(おがわ)駅で降りて、そこから徒歩で三〇分かかるこの街の小川女子高校に通っていた私は、その地元の友だちと登下校を共にしていた。

自分とツルむくらいだから、はっきり言って、その子たちもそんなに女子力は高くなかったが、一人は同じ陸上部だったし、私は安心して彼女たちとつき合うことができた。

 

👉『私の描いた看護記録』連載記事一覧はこちら

【イチオシ記事】男たちの群れの中、無抵抗に、人形のように揺られる少女の脚を見ていた。あの日救えなかった彼女と妹を同一視するように…

【注目記事】やはり妻はシた側だった?…死に際に発した言葉は素性の知れない「テンチョウ」