目に付く鱗

まとめさせていただく。西洋文化導入期と構造主義隆盛期とは、およそ百年の隔たりがある。百年の隔たりがありながらも、この両者には、どこか共通点があるように感じている。本来逆のものの根元(ねもと)に、精神構造的に何かが共通しているように感じるのだが、いかがなものだろうか。

手短に言えばものの表裏だ。もっと言えば鱗だ。鱗が付いた目で眺めた風景と、

目から鱗が落ちて見た風景だ。

鱗が付いているか否かは、誰も自覚していない。西洋文化導入期にも、人々は鱗の落ちた目で西洋文化を見たはずだ。

そして時代は巡り、二一世紀前半を生きるものは、今度は構造主義が何らかの鱗を落としてくれたと考えている。それでもまだ別の鱗が付いているかも知れない。これが敢えて言えば共通点と感じるものだろう。繰り返し的になるが構造主義を経験することにより、様々なことが見えてきた。

しかし時代が変わり、体制が変わり、思想も変われば、このポスト構造主義期に見えていないものが見えてくるかも知れない。その時には今我々のこの時代も、目には鱗が付いていたことになる。

この鱗も、先の分節網に則して考えると面白い。すなわち何かを認識する際に、その分節の仕方が変わるとする。すると今まで見えなかったもの、分からなかったものが眼前に現れてくる。鱗が落ちることと現象的に近似していないだろうか。

本書でこれから扱うことは、この鱗を意識したい。できる限り鱗を落としたいのだ。それでも完全に落とすことはできない。そのことも意識のどこかで持ち続けたいと思っている。

具体的には物事を、そこにある姿で見てみたい。

 

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