好奇心旺盛な若者である晋作は、暇つぶし先を求めて萩城の城下町をぶらぶらと歩き回っては噂を耳に入れ、興味を惹き付けられたものを根掘り葉堀り聞き歩いていた。
その中でひときわ晋作の好奇心を掻き立てた話があった。
長州藩の直臣藩士で山鹿流師範の家柄を継いだ吉田松蔭という晋作より九歳年上の若者の噂だった。
吉田松蔭の実家は杉家で二十六石の直参藩士だが、貧乏だったので幼い頃に吉田家に養子に出された。吉田家は山鹿流兵学を教える家だった。
村田清風が長州藩の基本である藩是や軍事力、財政力の抜本的な革新を実現する時に少年期青年期を迎えた松蔭は、自分の目と足で日本の現場を知ろうと萩を出た。
そして異国船が度々来日する現場にぶつかり、黒船を見て衝撃を受けた松陰は、自分の目で海外の実情を確かめたいと思った。
松蔭は密航が国禁であることを知りながら、下田でペリー艦隊の軍艦に乗り込んで米国に行こうとして失敗した。
米国側は日米和親条約を結べたことを優先し、鎖国を国是する幕府の機嫌を損なうことを嫌ったからだった。
スゴスゴと陸地に引き上げてきた松蔭と従者の金子重之輔は、黒船に乗って米国に行こうとした経緯を下田の官憲に告白して幕府の獄に入れられたと言う。
そして二人は幕府の江戸の小菅獄から唐丸籠(とうまるかご)(罪人籠)で萩に護送され、萩城下にある野山獄(のやまごく)という牢屋に入れられたと噂されていた。
従者の金子は野山獄で死に、松蔭は野山獄から解放された後、椿という萩城東側郊外の地で小さな私塾松下村塾を始めていた。