何故ならば『信長公記』には「十八日夕日に及て佐久間大学・織田玄番かたより御注進申上候処、其夜の御はなし、軍の行ハ努々無之、色々世間の御雑談迄にて……」とあり、清洲城における信長が前線に作戦の指示を出したという形跡がないからということもある。

それよりも「義元に向て」を、今川の軍勢に向かってと読むか義元の本陣に向かってと読むか、研究者でなくても当然考慮するべきところであるが、私ならばこの場合、前軍よりはずっと後方に控えているはずの義元本陣までの強行突破を試みたということを意味していると読む。

このような無謀な突撃は到底作戦というものではなく、佐々隼人正・千秋四郎の独断だったのであろう。

だがそれは「鑓下にて千秋四郎・佐々隼人正初めとして五十騎計討死候」という失敗になり、それを「信長御覧して」正面突破は到底無理だという教訓を得て「中島へ御移り候ハんと候つる」のであるから、信長は正面攻撃以外の作戦を念頭に置いたに違いない。

さらに、御先衆を攻めた一手を佐々隼人正勝通・千秋四郎季忠が率いた人数三百計のことと見做すことへの疑問であるが、私は御先衆を攻めた一手は人数三百計では少な過ぎ、数千人規模であったと考えるのが適当だと思うのである。

 

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