織田軍は二手に分かれたという説

今川軍の大将義元が壮絶な討死を遂げることで勝負が決着し、戦いは織田軍による今川軍の掃討戦へと続くのだが、これを『信長公記』は「運之尽きたる験にや、おけはさまと云う所ハ、はさまくてミ、深田足入、高ミひきミ茂り、節所と云事限なし……」という書き出しで展開していく。

ここで気になるのは、単に場面が掃討戦に移ったというだけでなく、同時に場所も切り替わったように思えるところである。

そこで、織田軍が二手に分かれたという説があることに注目したい。

史料としては例えば『松平記』に「善照寺の城より二手になり、一手は御先衆へ押来、一手は本陣のしかも油断したる所へ押来り……」とあり、敵本陣を攻めた一手と敵前軍を攻めた一手に分かれたということである。

問題は敵前軍を攻めた一手である。これまで論じてきたように今川軍は鳴海方面を目指したものと考えられるから、その前軍はおそらく鳴海城に最も近い付城である善照寺砦に迫っていたに違いない。

つまり、敵前軍を攻めた一手は、善照寺砦から善照寺砦に取りかかっているすぐ目の前の敵前軍に攻めかかったということになる。

多くの解説では、敵前軍を攻めた一手とは『信長公記』に「信長善照寺へ御出を見申、佐々隼人正・千秋四郎二首、人数三百計にて義元へ向て足軽に罷出て候へハ……」と記述のある軍勢のことであると説明している。

それは敵本陣を攻める一手の進軍を隠蔽するための陽動作戦だったというのである。

私はその説には疑問を呈したい。

まず陽動作戦についてであるが、結果的に陽動する効果があった可能性はあるとしても、作戦としてあったか疑問である。