【前回記事を読む】中島砦は手越川を渡って南に出撃するための機能を備えていた!? 『信長公記』から読み解く信長軍の真相とは
第一部 桶狭間の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦い
一 桶狭間の戦い ~「正面攻撃説」から「迂回奇襲説」へ回帰する~
織田軍の進軍経路の想定地図を完成させる
織田軍の進軍経路を明らかにしたところで、一方の今川本軍とりわけ本陣の進軍経路についてであるが、その向かった先が大高方面ではなく鳴海方面であったであろうことは既に述べた。
鳴海方面に向かう道筋については、鎌倉街道から善照寺砦の東に出る道筋、東海道から中島砦の東に出る道筋、大高道から途中で右折する道筋の三本が考えられる。
名古屋市緑区桶狭間の古戦場公園と豊明市栄町南館の国指定伝説地の二ヶ所が古戦場として有力であるが、前者は大高道から途中で右折する道筋の途上、後者は東海道から中島砦の東に出る道筋の途上と言えるのだが、私にはそのどちらなのか判断がつかないでいる。
大高道から途中で右折する道筋を主張する根拠に『信長公記』の「おけはさま山に人馬の休息之在」という記述を挙げる研究者が多いが、それはあくまで信長が善照寺砦から眺めた景色の中のことであって、それが今川本陣であるという論拠になるような記述ではないようである。
むしろ大高方面への後詰の必要がなくなった今川前軍が鳴海方面に振り替えを命じられ、その途中で桶狭間山で休息したという可能性も考えられる。
史料としては、勝者である織田方のものが圧倒的に多く、敗者である今川方のものが遺されていないのが現状であるから、織田軍の進軍経路は解明できても、今川軍の進軍経路は判然としないというのは当然なのである。