最後の会場は、東日本大震災後を撮った写真である。震災後しばらく経って、被災地の近くに行ったことがあった。交通規制の看板が多くなるごとに、景色が薄くなっていく気がした。ニュースに出てこない話をいくつか聞いた。そのたびに体の中が膨れた気がした。

静かな海と傾いた建物、仮設の商店街で、風に頬を撫でられる。海風に乗って、聞こえない声、言葉や声ではないたくさんのなにかが通り抜けていく。上半身がさらに膨らむ感覚があった。

写真にはたくさんのものが映し出されている。幼い兄妹が並んだモノクロの写真。目の前のことを受け入れられない妹の瞳の隣で、幼い兄は瞳の中で覚悟を静かな光に変えている。

中年に差しかかった女性が、写し手を見据えている。強いまなざしの中にカオスのような感情が混在している。喪失感や憎しみの感情とともに、向日性の兆しが瞳の中に確かに息づいている。

連れ合いもモノクロの写真たちに見入っている。お互い感じたことの共有はしない。

たぶんそれは、それぞれの胸にしまっておくべき種類のものなのだ。感じることができれば寄り添える。寄り添うことができれば想像ができる、そうすることで思考はぐんと広がっていく。できることに限りはあるのかもしれない。けれども、可能性だって限りないかもしれないのだ。

8 河津桜

河津桜を見に行った。駅は人であふれ返っている。

葉桜である。桜といえばソメイヨシノの薄桃色。河津桜のぼってりと濃いピンクは、桜というより桃の花の色に近い。特に葉桜とのグラデーションは、見慣れていたものとはだいぶ印象が違う。葉桜の頭上にノスタルジックな電車が通り過ぎていき、絵に描いたような春の観光である。

そして花より団子なのである。見にきたのは見頃の桜のはずなのだが、出店の方の声かけに、やけに誠実に応えてしまう。うなぎやさんま寿司、きびなごだのわさび漬けになんだかもうくぎ付けなのである。

三島コロッケを頰ばりながら、川伝いに海まで歩く。枝の上でメジロが鳴いている。カワウだかウミウだか正体はイマイチ不明な水鳥が、つがいで悠々と真水と海水の混ざった場所を下っていく。

海に出ると、水平線の上には、雲が広がっている。海の色は、緩やかな曲線を描いて青と蒼(あお)のツートンカラーだ。光が作り出す色の違い、それぞれの深さを思わせる。反射して光る水面、時折白く立つ波が美しい。寄せては返す波が、散った花びらのたまりを作っている。

砂浜では、きゃっきゃと少女たちがチャンバラだかフェンシング遊びをしている。麗(うら)らかである。

 

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