【前回の記事を読む】修学旅行で失踪した同級生は、後に自死を遂げた…「大学紛争」の時代、青年期特有の形而上の問題について考える
第Ⅰ部 ヨーロッパ彷徨記
はじめに
法学部に身を置くことには耐えられなくなっていたので、文学部の仏文科に転部することを決め、文学部の事務でその旨伝えたところ、北大の文学部には仏文科はないとのことだった。青天の霹靂(へきれき)とはこのことだった。
理由はこうだ。文学部を設置する際、仏文科と露文科両学科の設置は財政上困難であり、北海道がロシアに近いという理由で露文科に決まったということであった。すでに法学を学ぶ気持ちは失せていたため、フランス語を個人的に深めようとの思いで言語学科を選択し、転部試験に合格し文学部に転部が可能となった。
言語学科での授業が始まると、そこでは満州語やツングース語等の北方民族の言語の学習や言語調査・研究で必要とされる学問で当時盛んであった「記述言語学」の学習、さらにゼミにおける「沖縄語」に関わる学習等がメインであり、フランス語に関わる授業はなく個人的に学習を続けるしかなかった。
幸い1年間だけ開講されていた「フランス語特講」という授業があり、後で分かったことであるが、フランスの地理学者であり東洋学者、思想家、翻訳者でもあるオギュスタン・ベルク氏が担当されており、そこで初めてフランス人に出会い、生のフランス語を聴くこととなったのである。
授業はゾラの『大地』の講読で、なぜゾラなのか当時は分からなかったが、今考えると先生のご専門の地理に関わる文献の一つではなかったのだろうかと思われる。
一度、先生がお住まいの外国人教師用のお宅に「ル・モンド」というフランスの新聞を見せていただくために伺ったことがあった。丁度、畑仕事を終えたところだったとおっしゃられたが、日本人の女性と結婚されていて、まだお若い先生が庭で畑仕事をすることに新鮮な驚きを覚えたものである。
常々フランスに留学したいという希望を抱いてはいたが、「フランス政府給費留学生試験」には仏文科の専門ではないため無理と諦め、大学在学中の公費留学制度に「サンケイスカラシップ」というのがあることが分かり、ダメもとで一次試験に臨んだところ、フランス語の知識を問う筆記試験と留学希望の理由を書く作文があり、結果として北海道からただ一人の合格者となっていた。
しかし、二次試験は高校時代の成績で判定されるということだったので、間違いなく通らないだろうと思っていたが、その通りの結果となった。
最終的に私費留学しかないと思い、以前に大学の中央図書館の掲示板で見かけた「フランス語フランス文明講座─ディジョン大学(現ブルゴーニュ大学)」を思い出し、ワインと美食の街で有名なブルゴーニュ地方の首都の大学でフランス語を学ぶのも悪くないと思い、当時文通相手であったスウェーデンの女子学生にその旨伝えると、
彼の地では国際学生証があれば夏期の間労働許可証が取得できるとの助言を受け、英語での意思疎通には問題がなかったので、スウェーデンで正規の労働者として収入を得、それをディジョンでの滞在費等として蓄えることとし、
大学を休学し(当時北大では教養課程で2年、学部課程で2年の休学期間が認められており、授業料は年間12,000円だったので、親には出世払いでの返還ということで了解してもらった)4年目の3月下旬に横浜から船でナホトカへと向かうこととなった。それは1974年のことであった。初めての海外であり、月並みな表現ではあるが、期待と不安に満ちた旅立ちであった。
なお、1970年代の世代を代表する者ではないが、文中に女性差別的な記述が見受けられるとすれば、その世代の平均的な感受性としてご理解いただき、ご寛恕を乞う次第である。