否。
隋の皇帝煬帝は恐れを知らない残虐な王で知られている。
好戦的で何度も高句麗を攻め、世界に名だたる暴君であり、容赦のない蜥蜴(とかげ)の様な王だった為、本名の楊帝ではなく火を焙る意味の「煬帝」と呼ばれたほどの王が、たかが周辺の小国一カ国の助けが欲しい為に大国の威信を捨てて許すはずがない。
隋の煬帝は、北から侵入してくる突厥(とっけつ)勢に備え、百万人の民を動員して万里の長城を修復していた最中である。高句麗に出征して、突厥勢から背後を突かれることだけを恐れていた。
聖徳太子とは、実はかつては高句麗と共に中国を攻め、中国と互角に戦っていた北アジアの超大国「西突厥」の大王だったのだ。
その後、惨敗してしまい日本列島に亡命していたとはいえ、国書一つでも隋に対して一歩も引かないという気概が伝わってくる様だ。
突厥の実力者としての影響は計り知れなく、突厥に残っていた王子や高句麗とも連絡を取り合っていた様子も窺え、煬帝はこれ以上突厥を刺激したくはなかった。
突厥の実力者であった聖徳太子を許し、和国の駆け引きを認めざるを得なかったというのが真相だ。亡命とは読んで字の如く、亡くなった事にして他国で命を繋ぐ行為なので通常は歴史上から抹殺される。
中国と戦って日本列島に亡命した王は知られてもその名は封印され、歴史の上では過去の経緯より「辺境の地」の王としての承認の方が寧ろ強調された。
