7、荘子の斉物論に以下の文章がある。「昔荘周夢に胡蝶となる。栩栩然として胡蝶なり。自ら愉みて志に適えるかな。周たるを知らざるなり。俄然として覚むれば、すなわちきょきょ然として周なり。知らず、周の夢に胡蝶となるか、胡蝶の夢に周となるかを。周と胡蝶とは、必ず分あらん。これをこれ物化と謂う注3)

胡蝶の夢のように、荘周が夢で胡蝶になったのか、あるいは胡蝶が夢のなかで荘周になったのか、どちらが本当かわからない。夢も現実も変わりはない。他人だ我だ、本体だ現象だ、生だ死だと分別するが、実は自然のなかの変化であり、万物は同じ道より出て、一如一体のものである。すなわち「万物一如」であることの例え。

「夢」という言葉はこれらのすべてを抱合しており、人それぞれで、同じ人でもその時時の環境、体や精神の状況や年齢に応じて如何様にも変化したり、混在した状態になると思う。荘子の「胡蝶の夢」に関しては10年ほど前にコラム3に記載のブログにも掲載している。

私自身はこう考える。「昨夜見た夢と、20年、あるいは30年前に我が身に起こった出来事と何が異なるのだろうか? 自分自身の記憶を辿れば、確かに、おそらく、20年前にそのことは生じたに違いない。しかし、今となれば夢幻、昨夜見た夢となんら違わないのではないか」と。そして明日のことは誰にもわからない。

過去は夢、幻。確かにあるのは今の瞬間、この瞬間こそが私が信じられる現実だ。だからこそ今のこの瞬間を生き抜くこと、全神経を注ぐことが生きるということではなかろうかと思う。

「この瞬間を生きる」。人生振り返れば夢、幻。明日は存在するか不明。「今の瞬間が人生のすべて」

「胡蝶の夢」と私自身の考えを混ぜ合わせて「胡蝶夢号(こちょうむごう)」と命名することとした。

コラム3 胡蝶の夢

「胡蝶の夢」はなかなか味わい深いものがある。単に相対的なものの見方だけではなく、夢の胡蝶が今の自分を夢見ているのか、それとも今の自分が夢で蝶になっているのか? このような相対的な物の見方が問題ではなく、そのようなことはどうでもいいと荘子は言う。

どちらにしてもあるがままの今を楽しむことがすべてである。

この考え方からは、過去と未来、そしてそれを仲介する今の瞬間、この瞬間がすべてであると言っているように、私には思われる。


※ 車長5・20m、幅2・11m、高さ2・95m

注1) 西部文浄.(1994).茶席の禅語(橘出版)

注2) 岩崎宗端.(2023).その禅語、決まった時だけ掛けていませんか(淡交社)

注3) 荘子.(2008).中国の思想 荘子(徳間書店)

 

👉『胡蝶夢号の旅』連載記事一覧はこちら

【イチオシ記事】「よかった?」演技なんてしてないのに確かめられて、酸欠状態で無難にうなずいたら、そのあと…

【注目記事】夫の不倫相手の親の家を訪ねることに......「俺も行く」考えの読めない夫もなぜか同行。