ついのもの
近年日本の古きものに一段と関心を深める。人間は加齢と共にルーツを求めるのであろうか。自分を産み且つ育てた大自然への愛着。友なる山川草木。そこに生まれる生きとし生けるものへの熱い眼差し。
人間は皆同じという連帯感。どんなお方も人生で尊いものを学んでおられる。人間互いに師であり友であると切に思う。人間の表層に付着する世俗的なものは一過性に過ぎぬ。これに囚われるとものの本質を見失う。人間の在り方の基本は恭倹であり慎独だよとおっしゃった安岡正篤先生の俤(おもかげ)の浮かばぬ日はない。
先般、阪急電車で無心に読んでいる老婆に驚嘆する。近来、苦心探求中の『正法眼蔵』ではないか。日本の庶民はレベルが高い。仏教に関心を持って久しいが般若心経は高神覚昇師で自分なりのものとし朝の読経は懈怠(けたい)ない。
東大寺前管長の平岡定海師が二月堂ご住職の頃、般若心経の中から所望通りに揮毫して頂いた私の究極の悟言を軸にした「心無けい礙 無けい礙故 無有恐怖 遠離一切」である。
一切は心より転ずと頭で理解していても解脱は至難である。只管打座もせず身心脱落出来る道理はない。まさに迷悟は我にありだ。そこにさる高僧の話で多少安堵する。
曰く、成仏とは生きて悟る即ち人間らしい人間になる事だと。今からでも遅くはあるまい。来たるべき日までの一日、一日を修業と心得たい。
生きてこそ
密かに思う。迫りくる更なる老いと旅の終わりを。人生への諦観が自然に深められ静かな心で迎えたいと。大河への合流が自然であれと。身は大自然に還るとも心事は留めたいとも。そして静かに人知れずお暇乞いをとも願う。瞬間は自他も時空も超えたまどろみの中であろうか。
母なる大自然に同化される日まで、生かされる日々を生き生きて生きたい。往生は一定(いちじょう)なるが故に生きてこそ日々是好日(にちにちこれこうにち)でありたいと願う。
六 純の純なる日本的の山の姿 平成18年12月4日 日本海新聞 潮流
それは大峯奥駈道 (おおみねおくがけみち)の事である。初めてこの山の奥秘境へ足を踏み入れた時、鬼気の迫るような悽愴 (せいそう)な気持ちに襲われた。
森林と渓谷の測り知れない深さ、そそり立つ岸壁の物凄さ、高い湿度により生ずる陰湿、熊や毒虫の不安、その昔、役(えん)の行者以来集積された歴史に絡まる畏怖すべき伝説など様々なものから醸(かも)し出される空気が確かに存在する。
紀伊半島の脊梁 (せきりょう)をなす大峰山脈は近畿の屋根であり、全長100キロを超える山波に途絶えることなく一筋の岨(そま)道が延々と続き「大峯奥駈道」と言われ中世からの日本最古の山岳宗教修験場である。
始点は吉野・蔵王権現堂、終点は熊野本宮大社。山岳登山に興味を抱き特に70歳を過ぎてから猛烈に挑み、関西百名山を殆ど踏破した私が大峯奥駈道に収斂 (しゅうれん)されてゆくのは自然であった。