【前回の記事を読む】「体液が流れて、ウジ虫が湧いて…」という言葉が耳に蘇る。引っ越してきてからというもの、あの部屋に近づくのをはばかられた
夜空の向日葵
引っ越してきて十日ほど経ったある日、それは、ゆっくりと過ごした三連休開けの火曜日の朝だった。
早朝が明るくなってきて、六時だというのに、明るい光が薄いカーテンを飛び越えて室内に入ってくるのを我慢できずに、体を起こした。カーテンをあけて窓を覗くと、眼下に並んだ小さな建物の向こうに、太陽の光を帯びた海が見える。
木の葉が身を翻してきらりと鋭い光が目に入ったところで、私は今日がゴミの日であることを思い出した。玄関にまとめておいたブルーのゴミ袋を持ってつっかけをはくと、階段を下りた。
うちの斜め下の三階には、いつも日経新聞が入っていて書き殴るように沢山と書かれた表札が出ていて、新聞はきちんとなくなっているのに、家人の気配はまったく感じられない。
表札の横には、「チラシお断り」と「訪問販売お断り」と二枚の札が並べて貼られていて、近寄りがたい雰囲気を醸し出している。うちの下の下にあたる二階の家のドアには、チェーンをかけた状態ですり切れた茶色いゴム草履が挟まっている。
この家の前にはいつもゴミ袋が置かれていて、通行の邪魔になっている。いつかここの家の人にひとこといわなければと思いつつ、私はゴミ置き場へと向かった。
ゴミを収集場に置いて再び階段を上りはじめると、上の方できいきいとドアの開く油の切れた音がした。
一瞬足を止めたけれど、そのまま上っていくと、二階で恐らくもう八十はゆうに超えていると思われる老女が、ゴミ袋を玄関前に置こうとしているのに出くわした。
髪の毛は真っ白だけれど長くて、背中まで垂らした髪の毛で後ろに束ねていて、ずいぶん前に曲がったその腰では、髪の毛を洗うのも大変だろうと思われた。
「あんたかい。いつの間にか、四階に越してきたのは」
よたよたしたその歩き方には似つかわしくない、強い目の光を宿したその老女は、下から上ってくる私を見るなり言った。
「四○二の城野です。よろしくお願いします」
ふんと鼻を鳴らすように言って、品定めするような目つきでこっちを見た。実は、引っ越してきて以来、誰にもあいさつには行っていなかった。