【前回の記事を読む】「すぐに手術はしない」——癌を患う私の治療方針が決まった。手術後は酸素ボンベが必要になる可能性もあり…。
ハ短調に
突然の医師からの電話に出ると…
そのさらに二週間後、入院前の最終検査があり、和枝の担当となった呼吸器外科の鳥海医師から「心電図にわずかな不安要素はありますが、すぐに手術を決行することになりました。ただきょう、念のため追加した胸水の検査で疑問符が付いたら手術はできません」と説明があった。
その夜、三人の夕食を、廉が買ってきた弁当で済ませ、早めにベッドに入ろうとしていると、鳥海医師から電話が入った。
廉が取ると、低い声で「胸水にがん細胞が見つかりました。残念ですが手術はキャンセルしました」と告げられた。
こんな夜に、まさかの急転回。「手術」という最大の選択肢が一本の電話で遠のいてしまった。でもこれで終わりではなかった。
「奥さんは今、お近くに?」
「いえ、二階で床に就いたところですが」
一瞬だが、ひんやりした沈黙が流れた。
「そうですか。では端的に申し上げます。余命はあまり長くはないかと」
凍り付いた。すべてが。
「そうですか、失礼します」
廉は、やっとそれだけ言った。受話器を両手で戻すと、わなわな震えていた。カンファレンスの結果を少しでも早く知らせようとスマホを手に取ったのだろう。
でも聞かされた患者家族にとって、第一撃から立ち直れないうちに振り下ろされた第二のハンマーはあまりにも残酷で無慈悲だった。夜、静寂を破って鳴る電話ほど怖いものはない。二階の寝室を覗くと、和枝はもうすやすや眠っていた。
「治療に過度な期待はしないでほしい」
そう言いたかったのか。ともかく現実を、医師として迅速に伝える義務を感じたのだろう。でも、こうしてもたらされた情報は、これから治療を受ける上で何の役にも立たない。厄介な病気に罹り、「ステージⅣ」と宣告され、二人とも意気消沈している。
それでも、たった今この時点で「死」を考えることなどあり得ない。患者の心に忍び寄る恐怖を追い払い、「希望を持って」と励ますのも、医師の役目の一つなのではないだろうか。
廉は和枝のベッドの脇に立ち尽くしていた。この電話の後半のやり取りを、廉が和枝に話すことはついぞなかった。
心臓外科と共同で行う腫瘤摘出手術の線が消えたため、鳥海医師には、家から近い市民病院に戻ることを勧められた。抗がん剤治療となれば、がん診療連携拠点病院であればどこでもやれることは同じというわけだ。一理はあるが、転院してきた時点で和枝と廉はK大病院で治療をお願いしようと決めていた。
鳥海医師の外来最終日に呼吸器内科の高井潔医師を紹介された。三十代後半だろうか、和枝に明るく笑いかけ、聞き上手でもあるのだろう、不安材料を次々吐き出させていた。二人のやり取りを見ていて、この先生にならお任せできると廉は直感した。