「『赤いぞ』とクオリアを感じるとき、感じる自分自身がいる。意識も同じね。『さあ、知恵をだせ』とか『いまだ、行け』とかいう風に意識が動くとき、動かしている自分がいる。クオリアを含めた意識の最大の役目は、奇異に映るかもしれないが、この自分自身の代役になることね」
クオリアは極めて個人的で主観的な感覚であり、同じ経験をしたとしても同じクオリアを得られているかどうかは分からない。本人のクオリアは他人に決して理解できないものであると定義づけられている所以だ。
また、この性質ゆえに言語化することが極めて難しく、他人は、説明によってイメージはできても、まったく同じように感じることは永遠にできないものである。
つまりこの学者によると、クオリアや意識というものは思考でも判断でも理性でもなく、クオリアを実感し意識を動かす正にその自分に、いま思考や判断や理性を働かせているぞと、代役となって伝え聞かせるものだというのだ。なんとなく言いくるめられ、分かったような錯覚になる。
「このクオリアのおかげで、人は『自分はだれなのか』と、この世にふたりといない自分の存在を感じる。よりによって、なぜこの肉体がジョナサン・ジョイスなのかとね。この意味でクオリアはわれわれの身体と心を繫ぐ唯一の架け橋。
でも残念ながら今までにこれを渡り、なぜ物質の脳からクオリアや意識が生まれるのか、その解明に成功した研究者はだれもいないね」と当人はますます上機嫌だ。
「この意識について、古代ギリシアの時代から哲学者の議論と論争は果てしなく、わたしも心理学者として長年格闘してきたけど、正直その正体は未だよく分からないよ」と続ける。
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