【前回記事を読む】面倒臭そうに体をこちら向きに動かし、「半身麻痺で言葉を発することができません」…本人を目の前に言う看護師を不快に思った。
花の訪れ
二人は隣の席であったが、互いに恥ずかしくて話をすることができなかった。特に沢田は、自らが父親と鏡映しのように思えていたこともあったのである。
そんな二人に暖かな風が柔らかく吹いて来て、きっかけは突然にして訪れた。半開きの教室の窓から一匹の紫色の蝶が迷い込んできて、窓寄りに座る妙子の三つ編みの髪に留まった。妙子はそのことに気づかなかったが、沢田はすぐ気づき、妙子に何と声をかけたらいいのかわからなかった。
蝶はふわふわと、まるで柔らかな音をたてるように、上下左右に動き、妙子の目の前を移動して彼の腕に止まった。妙子は不思議そうに眼を丸くして驚き、沢田にはその様子が心に何かを語りかけるようであった。妙子は思わず声をあげた。
「まあ、きれい。紫色の蝶ね。どこから飛んできたの?」
「本当だね、どうする?」
「そのままにしておかないと可哀そう。それにとても可愛らしい」
彼女が言うと蝶は鮮やかな色を残して、再び窓の外へ飛び立っていった。二人の心には、紫の余韻がそっと染み込んだようだった。時は夕暮れ色に染まろうとして、沢田と妙子は一緒に帰ることになり、肩を並べて茜色に染められた道をゆっくりと進んでいくと、小川のせせらぎが出迎えてくれた。さらさら流れる音に、二人の吐く息が重なるように漂っていた。
川の途中に大きな岩がいくつか並んで、向こう岸まで続いていた。妙子は岩を飛び跳ねて渡り、向こう岸まで行くと、花が喜びをあげるように大きな声で叫んだ。
「沢田さん、こっちまで来て。野花が咲いていますよ」
「待って。今からそっちに行くから」
「滑らないように気をつけて」
小鳥がさえずるような妙子の声に応えて、沢田も鳥が羽ばたくように向こう岸へ渡った。
「本当に花がきれいだね」
喜びの声が川に澄み渡るように響いた。
「そうでしょ。ほら、水も冷たくて気持ちいい」
妙子は両手で水をすくって顔を洗った。子供が歓声をあげるような姿を見て、沢田はとても彼女が可愛らしく思え、自らも顔を洗ってみせた。二人の透明な笑い声がどこまでも響くようであった。川の囁(ささや)くような流れに乗って、沢田と妙子はいつの間にか手を繋いで、再び元の方へ渡っていった。