第一章
始まり
九月も終わろうとしているのにとても蒸し暑く、おまけに湿度も高くジメジメしている。
汗が滲み出て肌にまとわりつき気持ちが悪い。朝夕には涼しい風が吹くようになったが、まだ残暑は厳しい。
部活が終わった後、友人たちと長話をしたせいで帰宅時間が分大(だいぶ)遅くなった。夕食の時間はとうに過ぎている。私の家は兼業農家で父は近くの土木会社に勤め、仕事の合間に祖父と母の三人で農業をしていた。兼業農家といっても、米、野菜を手広く栽培しているのだから大変だと思う。
私は手伝ったことがない。いわゆるお嬢様だ。一人娘で甘やかされ我が儘(まま)に育った。年の離れた弟がいる。弟は私より十歳年下で四歳になったばかり。私は中学二年生で卓球部。
その部活が終わり帰宅したところだった。
「お姉ちゃん! お帰り!」
弟の元気な声が台所から聞こえてきた。私が台所を覗き込みVサインを弟に送った途端、
「こんなに遅くまで、何やってるの!」
母の一喝だ。
私は小言を聞くのが嫌で慌てて、通学バッグを背負ったまま居間に飛び込んだ。
家の手伝いをしないという後ろめたさもある。居間では夕食を終えた父と祖父がボクシングのテレビ中継を見ていた。二人ともボクシングが大好きでよく見ている。
「そんな殴り合い、どこが面白いの?」
と、テレビを覗き込んだ。実は、母の小言を聞くのが嫌で逃げ場を探していたのだ。
「ご飯いらないよ。部活の後、友達とパンを食べたから」
お菓子をたらふく食べたのだが、怒られるのでパンと言っておくことにした。
テレビでは、WBC世界スーパーフェザー級チャンピオン 沼田誠二対同級七位ラウル・ロハスの世界タイトルマッチを放送していた。
試合は四R(ラウンド)に入っていて、チャンピオンの沼田誠二は挑戦者からダウンを奪われ、ボディ攻撃のダメージで足が動かなくなっている。KO負け寸前だ。挑戦者は執拗に連打を浴びせる。
「もう駄目だね」
「いや、沼田は負けないよ」
私の言葉に父が返す。私は父の言葉を信じられなかった。チャンピオンは、あんなにフラフラなのに勝てるわけがない。ところが‼ 五Rに(ラウンド)入り、沼田の右ストレートのカウンターが、相手にヒットした‼ そして、続く痛烈な右アッパーでロハスをKOに持ち込んだのだ。
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