1872(明治5)年11月
ライマン、北海道開拓顧問ホーレス・ケプロンの推薦によって地質・鉱床開拓の第一線にあたるため他の専門家たちと来日。ライマンは、アメリカ人技師アンチセルとともに、北海道の基礎地質と地下資源の探査とに力を尽くす。
初めは開拓使仮学校で教鞭をとりながら、日本の鉱山の歴史について研究し、その後、北海道に入り、全道を跋渉(ばっしょう)する。
4月15日、開拓使仮学校(のちの札幌農学校)を東京芝増上寺内に設ける。仮学校の中から女学校が併設された。
仮学校と名付けられていても、一般生徒とはちがって、当面する必要に応ずるために働いた生徒がいた。地質測量生徒と電信生徒である。
5月17日、ライマン、石狩川をさかのぼる。
――東海岸に出る目的で、75日分の食料を準備、補助の秋山美丸ほか翻訳官、人夫数十人と札幌を出発。
夕張・空知(そらち)・雨竜(うりゅう)を調査して石狩原野左右の連山が大煤田(石炭)たることを察し、7月12日カムイコタンをすぎて蝋石の大塊を検し、ハルシナイに宿し……同伴せし上川アイヌに、親戚・朋友を訪問すべき暇を与え、自身は美丸らと引き返し……ライマンは地質を調査し高低を測り、
各支流の水量を測り、松浦地図の誤謬(ごびゅう)を訂正しつつ石狩川を遡りしが、前人未踏で地名もなければ、秋山川(助手・秋山美丸)、矯龍淵(ケプロンふち)、荒井川(荒井郁之助)、大鳥川(大鳥圭介)、山内川(山内堤雲)、開拓川などの名を命じ、7月25日、開拓峠と名付けたり。
石狩川の水源をきわめて分水嶺に達したるは、この一行を以て嚆矢(こうし)とす(小島烏水)。
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