ベンジャミン・ライマンと日本、その時代

1835(天保6)年

12月11日 ベンジャミン・S・ライマン、米マサチューセッツ州ノーザンプトンで生まれる。

?    年 ハーバード大学で法律を修める。
?    年 ボストンの工科大学卒業。
?    年 ドイツへ渡り、フライベルヒの鉱山学校で採鉱冶金を専攻。
?    年 アメリカへ帰り、ペンシルバニア州立、地質調査所長・ゼー・ビー・レスリー博士について実習。

この間、地形により鉱層の連脈を知る方法を案出し、鉱床の露頭を発見する便宜を得る。さらに地下鉱床の形状および深浅を予知することさえできるようになった。

1871(明治4)年

北海道開拓次官・黒田清隆、欧米出張し外人顧問の招聘(しょうへい)をはかる。

北海道は開拓のモデルとしてアメリカの経験と技術を選択、ケプロンを中心とする外国人顧問団に大幅な権限をあたえた。

――開拓使のお雇い外国人は総数78人、その内訳はアメリカが圧倒的に多く48人、ロシア5人、イギリス・ドイツ各4人、フランス1人、中国13人(うち10人は農夫)。職種は学校教師17人、汽船乗組員12人、鉄道建設8人、農業・牧畜5人、測量と土木・地質各3人。

農業関係、札幌農学校ではクラーク、幌内鉄道の建設・経営……地下資源の開発に地質学・鉱床ではライマンらがすぐれた業績を残している(『北海道の百年』)。