「自分は、神道は宗教とは思わない。(中略)神を信ずるのは、先祖を敬うことであって、先祖の大本には皇室がある。それがだんだんと分かれて、われわれの家となったのだから、要するに先祖を敬うことが神道である」と。そして東条自身は阿弥陀仏に帰依して処刑に臨んだ(前掲⑰)。

柳田国男(一八七五~一九六二)が昭和20年に書いた『先祖の話』は、太平洋戦争後の祖霊信仰を論ずる時の出発点になった。彼は「墓は元来が先祖の祭場」とか、死者霊の「依座(よりまし)としての木主」(=儒教の「神主」)とか、儒教の影響を認めつつも以下のような見解を示す。

まず死者の霊は、昔は山の中に亡骸を送っていったことに反映されているように、山岳などに赴いて「段々と穢れや悲しみから超越して、清い和(なご)やかな神になっていかれる」。そうして死後、三十三回忌のとぶらい上げあたりを過ぎると個々の死者の霊は、「人間の私多き個身を棄て去って、先祖という一つの力強い霊体に融け込み」、「春は山の神が里に降(くだ)って田の神となり、秋の終わりにはまた田から上って、山に還って山の神となる」ような「農神とも作の神とも呼ばれている家毎の神が、あるいは正月の年の神」となる。

しかもその神は同時に「氏神」ともなって「家のため国の公のために、活躍し得るもの」と考えたし、先祖の霊は「最初は必ず同一の氏族に、また血筋の末にまた現れると思っていたのが、我が邦の生まれ替わり」だったのではないか、というものだ(『先祖の話』角川ソフィア文庫 ㉜)。しかし、こうした柳田の説には反論が出てきた。

例えば、末木文美士は、『先祖の話』の中の「日本人の死後の観念、すなわち霊は永久にこの国土のうちに留まって、そう遠方には行ってしまわないという信仰が、恐らくは世の初めから、少なくとも今日まで、かなり根強くまだ持ち続けられている」という言葉を取り上げ、「死者が身近にいるというのは、少なくとも死者のケガレがそれほど恐れられなくなった時代になってはじめて成り立ちうるものであるから、『世の始めから』あるはずはなく、せいぜい近世頃からのことに過ぎない。そして実質的にはその観念は葬式仏教によって普及したのである」とする(『日本宗教史』岩波新書 二〇〇六年)。

死者のケガレを除去する仏教の呪術性については第2章第1節で述べた通りだ。また歴史学者の佐藤弘夫も、「柳田が見取り図を作り、多数の民俗学者や宗教学者がトレースした『身近な先祖』のイメージは、この列島の悠久の歴史の中でみれば、たかだか三百年ほどの伝統をもつにすぎない」とする。

つまり、中世では仏によって救われた魂は他界に飛翔しており、墓地にいないとされていたのが、近世になって墓地に死者の霊魂が棲み続けるとされ、「一般庶民にまで墓参りの習慣が定着していくのは、江戸時代の半ば以降のことであった」と言うのである(『死者の花嫁』幻戯書房 ㉝)。

こうして、祖霊信仰は今日でも仏教との関わりが強いのであるが、これを「神道的死生観」に含めたのは、新渡戸、東条、柳田の言葉に見られたように神道的なるものと認識されてきたことと、このあとの儒家神道・復古神道などの記述への流れを考慮したためである。