第5章 仏教的死生観(4)― 禅的死生観

第2節 絶対主体の確立による生死超克

さて、先の「大活現成」した時点に至ってその心境を言い換えると、至道無難禅師(一六〇三~七六、白隠の師・正受老人の師)が詠った「生きながら死人となりてなりはてて思いのままにするわざぞよき」の境地である。

こうした「思いのままに」自由闊達に状況に対応・行動できる主体を竹村にならって「絶対主体」と呼び得る。上記・菅原の言う「自分が神であり、仏である」ような精神状態である。竹村は「絶対の主体となってはたらくとき、そこには生もなければ死もないであろう」と言う。くどいようだが「絶対の主体」の有り様をさらに検討したい。

禅書『臨済録』には「随処に主となれば立処(りっしょ)皆真なり」とあるが、絶対主体を確立していればどんな場でも真なる生き方ができる、といった意味だ。さらに『金剛般若経』には「応(まさ)に住する所無くして而(しか)も其の心を生ずべし」という句があって、禅宗では特に重んじられた。

これを哲学者の井筒俊彦(一九一四~九三)は、「住する所」すなわち執着やとらわれの意識を無化した上で自由な心が現れるようにすべきだ、と解釈し、その境地を「超意識」または「無心」と言ったが(井筒『禅仏教の哲学に向けて』野平宗弘訳 ぷねうま舎 二〇一四年)、これもまた絶対主体の謂(い)いだと思われる。