【前回の記事を読む】その夜からずっと、恭平は彼女の裸体を見ることを日課とした。この《ヴィーナス》に陳腐で身勝手な妄想を真剣に抱き続けていた
Chapter1 WINDOW
一昔前だったら、広島で一応名の通った高校のレギュラー級なら全国大会に出ていなくても結構な誘いがあったらしいのだが、最近の全国的なレベル・アップのお陰で、広島はもちろん鯉城高校の名も軽くなったらしい。
それにしても一流選手に限っての話で、走り回るだけが取り柄の二流選手の恭平としては、何とか全国大会出場の箔をつけるべく、大舞台での一か八かのチャンスに期待をかけるしかない。その方が、今さら英単語の一つ二つ覚えるよりずっと効率が良いはずだ。
そんな切羽詰まった状態だから、試合に臨むエキサイトに加え、受験前夜のプレッシャーを感じて、恭平は眠れないでいた。
七月来の《ヴィーナス》との逢瀬を、まるで就寝前の歯磨きと同じような日課として済ませた恭平は僅かながらも平静を取り戻し、再び閉じられた十数メートル先の窓に映る影を、小さな雨の中に見送って部屋に入った。
コーティングされたジャンパーの表面に無数の小さな水滴が流れ、軽く指で撫でた髪は洗髪の後のように濡れていた。梁に掛けられたタオルで乱暴に髪を拭い、ベッドに潜り込んだ瞬間、身体中に悪寒が走り、思わず身震いをする。
冷たくなった手をブリーフの中に突っ込み、恭平自身を握りしめると、先刻とは打って変わり熱く燃えており、握った掌から頭がはみ出していた。安堵した恭平は、闇に慣れた目で部屋の中を見回した。
ベッドの他には机と石油ストーブ、そして夏には大きなうねり音を立ててバランスの悪い冷気を運ぶクーラーが埃を被って、そこに在る。
二本の梁は格好の本棚になっており、教科書やノートと一緒に『サッカー・マガジン』から、受験用に読み始めて直ぐに投げ出した小林秀雄の『考へるヒント』まで、傾向の掴みにくい雑誌や単行本がチグハグに一列に並んでいる。奥側の梁の下方にはズボンやシャツが無造作に吊るされ、何故か、風もないのに揺れている。
ボリュームを絞ったラジオから、ビートの利いた前奏に続き、囁(ささや)くような女性の歌声が流れ始める。初めて耳にする曲に瞬時に魅了された恭平は、慌ててボリュームを上げた。
「私 泣いたりするのは 違うと感じてた~♬」
歌声は徐々に歯切れの好いリズムに転調する。そのミステリアスな歌詞とアップテンポな新曲「飾りじゃないのよ涙は」は井上陽水の作詞作曲で、歌っているのは恭平より一歳年上ながら妙に大人びてアンニュイな雰囲気を醸す中森明菜だった。
長い曲を聴き終えた恭平は、気怠(けだる)い溜息をひとつ吐き、スイッチを切り、目を閉じた。
静寂を取り戻した部屋の中で、枕元のデジタル時計がジー、ジーと耳障りな音を立て、恭平の脳裏に再び、《ヴィーナス》のシルエットが浮かんできた。
九月半ばから彼女は裸にはならず、ただ窓を開け空気を入れ替えるだけなのに、恭平のイメージする《ヴィーナス》は何時だって裸だった。
握った左手に力を加えると、恭平自身は反発するように張りを増した。
「節制、節制……」
自らを諭すように呟きながら、恭平は布団の中で背を丸め膝を抱いて、眠りの淵に沈み込んでいった。