【前回の記事を読む】「オレが突き落としたんです」まだ子供だった。船を止め、父は湖に飛び込んだ。兄の身体は引き上げられたが、その状態は…

湖の記憶

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「何が原因だったかまでは覚えていません。ケンカになって、オレは兄貴を突き飛ばした。兄貴は手すりから外に落ちた」

「あなたは『僕がお兄ちゃんを殺したんだ』とずっと大泣きしていたそうです。葬式が終わった翌日、あなたが記憶を失くしていることにご両親は初めて気づきました。泣くのをやめ、普段どおりに遊び始めたそうです。

ご両親が聞いても事故のことは何も知らないようだったと言っていました。小さい子供の事件でしたので、警察は事故として片づけました。ご両親はあなたに事故のことを思い出してほしくなかったので、ここにお墓を立てられないかと私に相談に来ました。ご事情を聞いて、寺の隅にお墓を作りました。お兄様の名前は森本悟でした」

「兄がサトル?」

「あなたの本当の名前は森本亘です。ご両親はあなたの記憶が戻らないようにと考えて、あなたの名前を変えました。ワタルという名前からお兄様のサトルという名前に」

「なぜそんなことを?」

「ご両親はあなたの中で悟さんが生きていると思いたかったそうです。あなたはお兄様の命も生きているのです」

サトルの目から涙が流れた。

「オレは自分の過去を教えてくれなかった両親を恨んでいた。暴力も振るったし、迷惑もたくさんかけた。両親はオレを守るために隠してくれていたんですね」

「そのとおりです。毎年四月四日にお父様かお母様のどちらかが必ず墓参りに来ていました。ご両親はいつ話せばいいか悩んでいましたよ。二十歳になったら話せばいいんじゃないかと話したんですが、結局話していなかったのですね。それだけご両親もお兄様が亡くなったことで苦しんでいたのでしょう」

「これから今まで迷惑をかけた分以上の親孝行をしたかったのに」涙が止まらなかった。住職が肩に手を当てて言った。

「その気持ちが大切なんですよ。その気持ちだけは死ぬまで忘れないでください」

「わかりました」

「お墓に行きますか?」

「ぜひとも」

住職が線香をサトルに手渡した。すでにサトルはお墓をきれいに拭き、落ち葉を片づけていた。

「兄貴、謝るのが遅くなったけど、ごめん。オレは兄貴の分まで必ず生きるから。だから空からオレを見守ってくれ」

風が止まり、線香の煙が空に昇っていった。まるでサトルの思いを届けるかのように。

「いろいろとありがとうございました。これからは毎年来ます」

「そうですか、お兄様もご両親もきっとお喜びでしょう」

事実を知って、今さらながらに考えてみると、両親はサトルを甘やかして育てていた。そこにはどこか卑屈な態度さえあったように思う。

その態度に思春期のサトルは反発心を持った。しかしその卑屈さには、サトルに兄の人生まで背負わせてしまったという、両親なりの償いの意味があったのだろう。

サトルは寺を後にした。