沙也加が電話しても出なかった。美春の部屋の鍵も掛けられたままで、インターフォンを押しても返事がなかった。会社から美春の実家に連絡を入れた。兄が慌てて美春の部屋に行ったが、部屋の中には誰もいなかった。美春の兄は警察署へ行方不明の届けを提出した。
それから一週間後、沙也加の携帯にラインが入った。美春からだった。
「今までいろいろありがとうね。私は達也さんのところへ行くことに決めました。二人で子供を生みます」と書かれていた。
沙也加は美春の部屋へ急いだ。
美春のアパートの前にはパトカーと救急車が停まっていた。制服の警察官二人と美春の兄が何か話していた。傍らには美春の両親が立っていた。崩れ落ちそうに泣いている母親を父親が両腕で抱きかかえていた。
「何があったんですか」
沙也加にはもちろんわかっていたが、聞かずにはいられなかった。
「あなたは?」
警官の一人が沙也加に尋ねた。
「美春の友人です」
美春の兄が代わりに答えた。
「そうですか。美春さんは亡くなりました。部屋の中で首を吊っていました。現状からいって自殺と思われます」
沙也加は地面に膝をつき、両手に顔をうずめた。
「今日はなぜここに来たのですか?」警官が優しく問いかけた。
沙也加は話すこともできず、携帯のライン画面を警官に見せた。美春の兄も画面を見た。
「今までいろいろ美春の力になってくれてありがとう」兄が沙也加の肩に手をかけた。
同様の内容の遺書が家族宛てにも書かれていた。文章の最後には、美春が赤ちゃんを抱いて、達也に微笑みかけているイラストが書かれていた。
後から思うに、美春が停留所の前で消えたあの瞬間、美春はこの世界とは別の世界へ行ってしまったのだ。沙也加はあの日、もっと強引にでも美春を止めなければいけなかったのだ。あのとき、美春を守れたのは沙也加しかいなかったのだから。
次の日の朝七時二分、沙也加は若松一丁目のバス停にいた。バス停にはまだ誰もいなかった。
沙也加は見えない世界をのぞくように、目を細めてバスの来る方向を見つめた。しかし、バスはどこにも見えなかった。
ちょうどその時、バスは若松一丁目のバス停の前を走っていた。そして後部座席には美春が座っていた。美春は隣の達也の顔を笑顔で見つめていた。
次回更新は8月29日(金)、18時の予定です。
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