保夫さんは頼りにしていた元バンク・オブ・アメリカの女性上司とも別れることになり、すっかり自信を失っていました。保夫さんをヘッドハントした上司も、彼に直接会った時にはどう対応したらいいかわからず苦しそうにしていたそうです。上司も薄々、アルツハイマー病のような病を患っている可能性に気づいていたとしか思えません。

その後、保夫さんは私に仕事の限界を訴えて、辞めることにしました。辞める時は銀行仲間に、タンゴを楽しみながらしばらくアルゼンチンで暮らすと話していました。

社交ダンスと私達のアルゼンチンタンゴ―1993年頃

保夫さんの元同僚は「保夫さんとアルゼンチンタンゴ、どうしても結びつかないよ」と言います。無理からぬことと思います。タンゴというと哀愁をおびた曲、官能的で派手な動き、おまけに深くスリットの入った衣装を着て踊るショーダンスしか知らない人がほとんどなので、ごもっともです。

保夫さんのイメージは「まじめで典型的な日本の銀行員タイプ」なので、タンゴのイメージとはかけ離れたものでしょう。かくいう私も、日本にいると、アルゼンチンタンゴを楽しんでいたと言うのにちょっと勇気と配慮がいります。

私達がタンゴダンスを楽しむに至ったのは、近くの高校の体育館で行われていたコミュニティー主催のダンスクラスを見つけたことに始まります。1987年に渡米し、5、6年たって生活も落ち着いた頃、「アメリカで生活するようになったら社交ダンスを習ってみたい」との希望がよみがえってきたのです。そのことは以前から保夫さんに話してありました。

コミュニティーの新聞で、近くの高校の体育館でのダンス教室の存在を知り、ほどなくして二人で通い始めました。「盆踊りが精いっぱいだったのに!」とぼやきながら、やっと重い腰をあげてくれた保夫さんも、レッスンでは次々と変わるパートナーと楽しそうにステップを踏んでいました。

後で保夫さんは「もし、あの時、嫌だと言ったら離婚されるのではないかと思った」と冗談交じりに告白していました。

ダンスのカズダン先生は元建築家で(奥様はピアノの先生)、日本にとても興味を持っていて、初めての日本人カップルである私達をとても可愛がってくださいました。

練習では、チャチャチャ、マンボ、ジルバ、ワルツ、ブルースの基本のステップを習うのですが、上体は反り返らずにまっすぐの自然体です。アメリカ人だからといって決して踊り慣れていて上手というわけでもありません。こんなものかと思いましたが、雰囲気はくつろいで楽しいものでした。カップルでない人はほんの2~3人、そこがまた日本と違うところでしょう。

 

👉『せっちゃんのアメリカ滞在日記』連載記事一覧はこちら

【イチオシ記事】妻の親友の執拗な誘いを断れず、ずるずる肉体関係に。「浮気相手と後腐れなく別れたい」と、電話をかけた先は…

【注目記事】何故、妹の夫に体を許してしまったのだろう。ただ、妹の夫であるというだけで、あの人が手放しで褒めた人というだけで…