【前回の記事を読む】巨大な蛆虫との会話、ゴミ穴での目覚め、目を射抜いた夕日の光──地獄のような空間で得た霊妙な力と塵芥仙人誕生の瞬間

塵芥仙人ごみせんにん

和紙を綴った台帳には、多くの人名の記載があり、初期のものは墨が色褪せ、茶色味を帯びていた。最も新しい頁の左側には、真筆らしき漆黒の署名があって、すぐに、あの沙織夫人のものであると見てとれた。

不気味なのは、すべての署名の下に、記載者それぞれが血判として押し当てたのであろう指紋が浮き出た血痕が、くっきりと残されていたことである。印鑑などの類は一切見受けられなかった。有三がそれらに倣って自名を記す間、老人は表情一つ変えずにじいっと見守っていた。

そしてこれも収集したゴミ塊から探り当てたに違いない、何ともみすぼらしい短刀を懐より取り出し、有三の前に差し出したのだ。台帳を挟んだ二人の間には、暗黙の了解があった。

有三は、黒漆が所々剥がれ落ちている鞘から白刀を抜き、自分の左親指にその刃を押し当てた。刀は意外にも名の通った業物(わざもの)であるらしく、表のみすぼらしい形からは想像もできぬくらい、ことのほか良く切れた。

鋭利な業物は、痛さを感じさせる間も与えずに親指深く切り入った。滴る鮮血の収まり具合を見計らって、おのれの署名の下に、血の滲む指を押し当てた。和紙は見る見るうちに彼の決意を吸い込んでいったのだ。

「さあ、これで契約は成立した。片手に満たぬうちに結果が出よう。事が成就した暁には、吉事日より数えて一週間以内に、この場所に来て事の経緯を報告して頂く。周囲に間違いが起きていないかの確認じゃ。報告が完了せし場合は、互いの契約達成の証しとして、お主の署名の上にわしが血判を押すこととなっておる。

もう一度申す。期限は一週間、一秒たりとも違えれば、何人も例外なく残りすべての余命を頂くことになる。ゆめゆめ、忘れることのなきよう」

老人は、きっぱりと言い放った。何かが気になって、有三は振り返り、もう一度台帳に目を落としてみた。すると、署名のすべてにわたって、その上に老人の血判が押されているわけでもないように見えた。確認の意味で、さらに自分の右隣にある沙織夫人の名前を覗こうとすると、老人はそそくさと台帳を片付けてしまった。

このような荒唐無稽な話、どこまでが真であって、どこから先が偽であるのか、有三は理解に苦しんだ。現実主義者である有三にとっては、蛆や人魚への逆進化だの、ましてや時を繰るなどの夢物語には到底付いて行きようがなかったのだ。思考の全面を覆い尽くすような疑念を残したまま時が過ぎていった。