「いや、十分に伝わったよ。基本に忠実でありながら、場合によってはそれを逸脱してでも勝つことができる。そういうやつと思っていればいいんだろう?」

「そう、そういうことだ」

「わかった。踏ん切りがついたら、買わせてもらう」

男は「それじゃ、先に行って待っとるよ」と言って立ち去った。

 

男の態度からは自尊心が垣間見えていた。相手をした後悔こそないが、やはり、馬券を買うつもりはない。ふと、思い出して桟敷席に目を向けると、人で溢れていた。

下見所へ向かったのは気まぐれだった。それは間違いない。馬番七のダンジュウロウは、栗毛の馬だった。しばらくの間、歩いている様を眺めてみる。しかし、他の馬よりも秀でた部分を見つけることはできなかった。

印象が一変したのは、返し馬のときである。十二頭のうち、馬場に入るのが一番遅かったのがダンジュウロウだった。入る前に肢を止めさせられたときのことである。早く走らせてくれとでも言わんばかりに、前肢で芝を掻いていた。下見所で歩かされていたときとの決定的な違いは、騎手を乗せているか、いないかである。

鞍上に視線を移すと、白地に深みのある青の三本線が斜めに入った勝負服を着け、青一色の帽子を被った滝本市蔵がいる。見た目では二十歳を過ぎているか、いないかといったところだろうか。その熟し切っていない顔には、自信を漲らせている。

勝馬投票券の売場へと向かったが、既に遅かった。行列の最後には係員がいて、最後尾の購入者で販売を締め切ることを示す看板を掲げている。背中を叩かれて振り返ると、先程話を聞いた男がいた。

「結局買えなかったみたいだな」

「やっぱり自分の目でも確かめておくべきと思ってね。下見所に行ったりしてたら、間に合わなかった」

男は笑顔で頷いていた。

第九競争はこの日行われた競走の中でも、圧巻の結末を迎える。序盤、発走直後に抜け出したダンジュウロウが、他の馬を先導する形となった。

中盤になってもそれが続き、直線に入ったときには引き離しにかかる。終盤は後続馬を一切寄せ付けないまま、大差で決勝線を越えた。

 

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