そういう人間がたいして重要な事は書けないのは必定なのです。多分読者にとって、全然重要でない、もしくはわからないことが多いのではないかと思います。
でもその後に何かしらの余韻が残って、1行の文章でも「なんかこの人変だなあ」と思ってもらえれば誠に有り難い事だなと思っています。
また自分が一流でない事は、これを書く作者の私は、肝に銘じておかなければならないのだけれど、もう還暦をすぎてしまったので、「プロ」や「プロの先」について作文する事は、世界は許してくれるのじゃないかな、と甘く考えています。
さて「プロの先」は、一体何者なのでしょうか?
「そうなんだよなー」という納得の答えにはならないように書いていきます。
1 子どもは「生きる」プロ 〜小児科医になって子どもから学んだ生きる基本〜
30年以上前、医師国家試験に合格して、ある日突然小児科医になってしまった。
「なってしまった」という表現がこんなに似つかわしいのもそんなにないのではないか、と思うほどだ。小児科医になりたての頃は、しばらく患児さんとは全然話もできなかった。
それは自分が高校生以来子どもにはほとんど会っていないのだから当たり前だ。小児病棟に入っても、何がどうなっているのか全くわからない状況で何年か過ごした。ひどい話だが何に対しても皆目見当がつかないんだ。
小児科医になってやっと5年以上経過した頃に「子どもの生き方や病気との戦い方、というのは我々大人とは違うんだな」と認識できたように思う。
この章では、その頃に子どもに対して驚いて「すごい!」と感じてずっと浮かしていた事を、思い出して書き表してみたい。
ある意味、子どもは動物として、生存していく事のプロなのであり、生命力は大人の我々よりずっと強いのだ。子どもから学んだ生きる基本は、その先の「プロの手前」、「プロになる」と最後の「プロの先」にも繋がっている。
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