思いきって辞めた前職は、しかし心残りがないわけではなかった。それを断ち切るための東北旅行だった。気分転換はできたが、自分をしっかり取り戻すとか、自信を持つとかまではいかなかった。
だが咲元との出会いは、明らかに紫に変化をもたらした。ふと、実家から出ていった日を思い出した。高校を卒業し、制服と家族から離れたあの日も、気持ちを新たにしていた。しかしまだ子供だった。今はもう大人なのだ。
来週からは新しい職場だ。紫は深呼吸した。誰も知っている人のいない、しがらみのない場所で新たにやり直すのだ。そう、咲元との思い出の数日など、このキスマークのようにその内消える。しかし私の内に植え付けてくれた、一人の愛すべき女性としての振る舞いは、心地よく紫の全身を包み込んでいた。例え仮初めでも構わない。
松島の美しい海と島々と共に、咲元はいい旅の記録になってくれた。言ってみれば寒かった私に、マフラーか手袋をくれたのだった。あるとないとでは、全然違う。しかしなくてもなんとかなるし、忘れる時もある。
全くなんて二週間だったんだろう。一人旅のはずがエスコートのように扱われ、浮かれて美容室に行ったりおしゃれしたり、部屋を念入りに掃除したり…。面接も今までで一番好感触だったし、毎日の足取りは確実に軽かった。そしていよいよベッドインとなるとなんだか…夢が覚めたのだ。
紫は今でも自分の身に起こったことという実感が湧かなかった。
恋の予感は、しかし警鐘も伴っていた。人の直感は侮れないものだ。一夏ならぬ、一秋の恋…。いや、恋にも満たない。
咲元も、傷ついていたんだ。信じていた彼女に裏切られて、ちょうどいいクッションを見つけたということだろうか。紫にとっては手袋みたいな感じだったのだから、お互い様だ。
行きずりの…か。人生こんなこともたまにはある、か。それでも後悔はしていない。この出会いがあったとなかったで、自分が全然違うだろうことを、紫はしみじみ感じていた。
これからはきっと、もっとうまくやっていける。そう確信していた。私に足りない何かを、咲元との出会いは補ってくれたのだ、と。そう、咲元が言っていた通り、10年以上色恋から遠ざかっていた、恋なんて絵に描いた餅だった私に、潤いをくれたんだ。私は咲元を、少しは慰められただろうか?