禅にのめり込んだダダイスト詩人の高橋信吉(一九〇一~八七)や玄侑宗久などの体験談によれば、臘八摂心(ろうはつせっしん)(12月1日から釈尊成道の12月8日まで昼夜ほとんど寝ずに座禅する修行)では、意識朦朧、危うくすると統合失調症的状態にもなるようで、それが菅原の言う「大分散」だろうが、それを乗り越えると、「禅が最終的に目指しているのも、精神の全き自由なん」だということがわかるらしい(玄侑『あの世この世』新潮社 二〇〇三年 瀬戸内寂聴との対談で)。
が、禅修業は座禅で終わりではない。「大死一番して、一旦は差別・相対・有限の現実世界を超越し、真に平等・絶対・無限の世界に到り、そこで『心機 一転』して自然に『大活現成(だいかつげんじょう)』、即ち再び差別・相対・有限の世界へ出てくる。
これが禅道の根本であり、『色即是空、空即是色』という般若の智慧でもある」(前掲㉑)。換言すれば「言語世界の否定」から「言語世界へと生還する」のである。
「言葉の否定によってこそ露現する真実」とはどんな姿か、それを言語で表現すると、例えば「本来面目」と題された「春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえて冷しかりけり」(道元)の悟境の風光となるというのだ。
やはり「他者と交(まじわ)り、他者と協働するためには、日常言語体系の虚構に自由に出入して、言うことが不可欠である」と竹村牧男は言う(前掲㉘)。