4月から新入社員に交じって28歳の私も研修に参加しました。同期の仲間は朝9時から研修が始まって18時には終了。私は時間がもったいないので、その当時日本で一番忙しい一ヶ月一億円を売り上げていた上野アメ横店に配属をお願いして研修後、店に戻り3年後には独立するんだという夢に向かってがむしゃらに働いて仕事を覚えていました。
しかし病院では先生と呼ばれていた私のプライドはズタズタ。パートのおばちゃんから先生は何も知らないのね、そこどいて。ビタミン剤はここ、風邪薬はここ、痛み止めはこの棚。約3000アイテムある商品を覚えるだけで大変でした。クレオソートが主成分の胃腸薬も知らないの? えっ、風邪の11の諸症状も言えないの?
朝から晩までレジ打ち、ティッシュとトイレットペーパーを毎日何ケースも店頭に補充し、トラックで山ほどくる在庫をみんなで連携して1階から3階倉庫まで上げるのが体力的にもとてもきつい。またドアはフルオープンで入りやすくて出やすくしていたので夏は暑く、冬は寒い。
少々万引きにあってもその分入りやすいほうがいい。損して得取れ。万引きしやすいぐらいの店のほうが売上があがる。あまりセキュリティーを高くして入りづらくする方が良くないと。様々な教えにびっくりしました。
休みは他店の視察に使い、朝から晩まで元気よく働くユニークな中途社員がいるということで1年後には所沢店の副店長へ昇格。秋には神田西口店店長へ、そこで日本一ビタミン剤を売って次の年には吉祥寺ダイヤ街店の店長へ。その後池袋東口店、渋谷パート1店、ディスカウントBOX柏店、浦和店と経験してスーパーバイザーに就任しました。
その後、人事教育担当として社員教育全般を担当し、特に店長教育、新入社員教育、アルバイト教育を担当して採用責任者へ。
この頃の会社は日本一が目標で社員一丸となっていました。この時の営業責任者(専務)が吉田雅司さん。私はこの方以上の人格者を今まで見たことがありません。もちろん南海雄社長は別格です。私たちが直接指示を受ける吉田さんが天皇陛下であれば南海雄社長は神様のような存在でした。
吉田さんがこうしたいといえば命を惜しまず実行する部隊がいました。私も当時その一人でした。吉田さんのお父様が教育者であったことから、よくこんなことを言われていたようです。先生と言われたら終わり。教育者は「踏み台になったと人は笑うとも、人の足らぬところを足す人となれ」という教えは、いまだに胸に刻んでおります。
東京証券取引所二部上場を通りこして一部上場の会社になったのもこの頃です。東京ドームのバックネット裏の広告やK1のリングサイド、CMに高校を卒業したばかりの優香ちゃんを使ったのもこの頃でした。CMが初めてテレビに流れる日には会長の行きつけのすし屋で今か今かとドキドキしながら見た記憶が今も鮮明に残っています。