お正月を過ぎてよし子は熱を出した。丈夫なのが取り柄、バカは風邪をひかないと、いつも自慢していたのに。三が日、店を休んだので気が抜けたのか、ちょっとの間、風呂上がりに素足で流しに立ったのがいけなかったのか。卵酒を作ったり葛根湯を飲んだりしたが、なかなかすっきりしなかった。店を開けても冴えない顔をしていたのだろう。
「田中先生のところに行ってきなよ」
と、客に言われてしまった。
「あの先生、注射打つから。子どものときから怖くて、嫌いなの」
「今はめったに注射なんか打たないよ」
寝れば治ると強がりを言ったが、お客にうつしたらいけない。店を開けられなくなったらもっと困る。ようやく重い腰を上げた。
路地を少し入って、大きなガラス戸を開けると、スリッパが並んでいる。床はいかにも年季が入っている。こんなに古い街医者がまだあることが不思議なくらいだ。老先生が元気だからか。
長椅子に腰を下ろして目をつぶった。薬のにおい、診察室から聞こえてくるカシャッと金属の触れ合う音、子どものころからお医者さんに来ると母の隣で小さくなっていた。注射を打たれませんように。苦い薬が出ませんように。
表のガラス戸が開いて、よし子と同じ歳くらいの女が入ってきた。ジーパンにダウンを羽織っている。近所の人のようだが見知った顔ではない。化粧気はないが、きめの細かい肌が顔立ちを引き立てている。
受付の窓から小さな声をかけた。
「先ほど伺った藤原ですが、保険証を持ってきました」
「藤原孝介さんですね。おかけになってお待ちください」
女は、よし子に会釈をして隣に腰を下ろした。
やがて看護師が姿を見せた。
「藤原さん、これが処方箋です。向かいに薬局がありますから。先ほど点滴を打ったので、薬は夜から服用してください」
「はい、分かりました。何も言わずにすぐに眠ってしまって……」
「眠ると楽になるでしょう。あっ、その靴箱の上のヘルメット、置いたまま帰られたようです」
「まあ、こんな大事なものを、すみません」
「現場からいらしたのですね。よほど辛かったのでしょう。お迎え呼びましょうかと言ったのですが、大丈夫ですって言われて」
女は、手渡されたヘルメットをそっと腕の中に抱えた。
その瞬間、よし子はヘルメットが孝介の頭に見えた。頭が女の腕の中に抱えられた。
ふっと血の気が下がって、ソファーに横になった。
「どうしました?」
看護婦が急いでよし子の脈を取った。
その横に肌の美しい女がいて、孝介の頭を抱え、心配そうによし子を見ていた。