外資系の会社の人事は秘密裏に行われることが常で、そのため噂が先行する土壌が出来てしまった。社員の大方の見方はこの次も本社のイギリスから若手が送られてくるのだろうと、外資系企業の当たり前を予想していた。若い外国人上司には日本人社員は納得していて、外資系の会社に勤務する納得感を持っていた。
食品機器部の前澤治次は2年前に部長に昇進したばかりの事業部内では一番若い部類だった。彼は外国人であろうと日本人の事業部長であっても雇われの身であるので文句を言う筋合いのものではなかった。
隣の部署の産業機器部長の篠原啓介は前澤とは同年配の先輩部長だが、どちらかと言うと外国人の方が相性がいいと言っていたが、何が根拠になっているかは知らない。
前澤の推測では彼は英語が出来るから、多分他の社員と比べてコミュニケーション面でやりやすいと判断したのかもしれない。
事務所中央の柱に掛かっている時計が丁度10時の時を刻んでいた、前澤のデスク背面のガラス窓には雨しずくが流れていた。天気予報通り、今朝早くからしとしとした春雨で、新任の部長を迎えるのにはふさわしい天候ではないと前澤は暫しの間、窓の外を眺めていた。
まもなく新任の事業部長が来る頃だと前澤は少し身構えて部下の杉下に「どんな人物かね」と少しそわそわした振る舞いで話した。杉下は「前澤さん、心配ですか? どっちでも、誰でもいいですよ、俺らには直接関係ないですから」とそっけない返事が返って来た。
事務所内の張り詰めた空気の中で、エレベータホール辺りで、はっきりとは聞き取れないが英語の会話らしき雰囲気を感じ取った塩見は作業中のタイプライターの手を止めて、小走りに事務所入り口に向かった。
そこには支社長のシモンと小柄な日本人の男性が立ち話をしていた。塩見は2人に両手を体の前に組むようにして軽く一礼し、右手の手のひらを上に向けて事務所内へと案内した。小柄な日本人は多分この日のためにしつらえたであろうグレーの艶のある背広を着ていた。
事業部長室はすでに前任者が離任した後でクリーニングされて、真新しい空気が満たされていた。部屋に一歩足を踏み入れた男性は塩見に対して「長谷川と申します。本日からお世話になります」と丁重に低い声で自己紹介をした。右手にはブラウンのハットの中折れ部分に人指し指と中指をかけて提げていた。